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海ボチャン (会話 | 投稿記録)
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劉備が[[益州]]を得ると安漢将軍に任命されたが、これは当時の[[諸葛亮]]を上回る席次の官位だった。劉備に古くから付き従った家臣である[[孫乾]]や[[簡雍]]よりも上位であったという(「孫乾伝」・「簡雍伝」)。
 
糜竺は穏健誠実な人柄で、人を統率するのが苦手だったため、高く礼遇されたものの一度も軍を率いる事はなかった。一方で弓馬に長け弓は左右どちら側でも騎射を行うことができた。子や孫まで皆がその道の達人だったという。
 
弟は[[関羽]]とともに荊州を任されていたが、[[219年]]個人的感情から仲違いをし、[[呂蒙]]にほとんど抵抗する事無く降伏した(「呂蒙伝」)。このため荊州に[[孫権]]軍が侵攻し、関羽は敗死してしまった。糜竺は自ら処罰を請うため自身に縄を打って出頭した。兄弟の罪に連座する事は無いと劉備に宥められたが、剛直な彼の怒りは収まる事がなく、そのまま発病して1年程で亡くなったという。