「クラウディオ・メールロ」の版間の差分

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メールロの若い頃についてはほとんど知られておらず、わずかにコレッジョで、著名な[[マドリガーレ]]作曲家[[トゥグデュアル・メノン]]とオルガン奏者の[[ジローラモ・ドナート]]に師事したということがわかっている程度である。洗礼記録の次に残る彼の名前を記した記録は、1555年にヴェネツィアでアントニオ・ザンターニのために行った法廷証言の記録である。ここから、彼がこの時期にすでにヴェネツィアの有力者と近い位置にあったことが知られる。おそらく、[[サン・マルコ寺院]]にて[[ジョゼッフォ・ツァルリーノ]]のもとで学んでいたと考えられているが、このことを証明する記録は一切残っていない。またヴェネツィア時代に[[コンスタンツォ・ポルタ]]と近しくなったと考えられ、この友情は生涯にわたって変わることがなかった。その後、[[1556年]][[10月21日]]にメールロは[[ブレシア]]の聖堂(Duomo Vecchio)にオルガニストとして職を得ている。そして[[1557年]]にイタリアにおける最も権威あるオルガン奏者の地位といえるサン・マルコ寺院のオルガン奏者に任命された。このことから彼のオルガン演奏の技術はきわめて高かったことが知られる。
 
ブレシアに職を得てから一年もたたないうちにサン・マルコのオルガニストとなったのは、彼の技術が高く、またヴェネツィアの有力者とも懇意であったことによるのであろう。この時、彼が[[アンドレーア・ガブリエーリ]]を抑えてこの地位を勝ち得たことは、彼の技術の高さを証明している。ただし、サン・マルコには当時2つのオルガンがあり、この時メールロが任命されたのは小さい方の第2オルガンで、第1オルガンの奏者には[[アンニレ・パドヴァーノ]]が留まっている。
 
[[1566年]]、パドヴァーノがヴェネツィアを去ると、メールロは第1オルガン奏者に昇格し、アンドレーア・ガブリエーリが第2オルガン奏者に就任した。1560年代から70年代にかけて、メールロは全ヨーロッパで最も権威あるオルガン奏者となり、また作曲家としても北イタリアで最も力のある存在となっていた。[[トスカーナ大公]][[フランチェスコ1世|フランチェスコ・デ・メディチ]]の長年の愛人[[ビアンカ・カッペッロ]]との結婚式(1579年)には[[ヴェネツィア共和国]]の特使に任命され、またフランス王[[アンリ3世 (フランス王)|アンリ3世]]がヴェネツィアを来訪(1574年)した際には祝祭音楽を作曲している。