「九州平定」の版間の差分
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宗麟の子[[大友義統]]には豊後一国と豊前の内で[[宇佐郡|宇佐]]半郡が安堵された。[[龍造寺政家]]、純忠の子[[大村喜前]]、[[松浦鎮信]]は、それぞれ肥前国内の所領が、[[宗氏]]には[[対馬国]]が安堵された。さらに、大規模な[[蔵入地]]も設定されたが、これには九州地方を「唐入り」の前進基地とする意図がこめられていた<ref>[[#クロニック|池ら (1995) p. 489]]</ref>。
その他、島津氏と結んでいた筑前の秋月種実が日向の櫛間([[串間市]])と財部([[高鍋町]])に移封され<ref group="注釈">ただし、櫛間地頭の[[伊集院久治]]は国割りに納得せず、翌年の2月まで[[櫛間城]]から退去しなかった</ref>、種実二男の高橋元種には縣(延岡市)と宮崎(宮崎市)が与えられた。さらに、
上方への帰途、秀吉は廃墟と化した[[博多]](福岡市[[博多区]])の復興に着手して、その直轄化をすすめ<ref group="注釈">石田三成・[[滝川雄利]]・小西行長・長束正家・[[山崎片家]]の5名を博多の町割奉行に任命し、その配下として下奉行30名を任じ、博多の豪商[[神屋宗堪]]・[[島井宗室]]に対して町割協力を要請、さらに、[[町衆]]に対しては[[問丸]]・[[座]]の廃止、地子諸役の免除、博多商船への違乱を取り締まることを告知した。</ref>、また、[[キリスト教徒]]によって[[ポルトガル]]領のようになっていた肥前[[長崎港]]([[長崎県]][[長崎市]])を視察し、[[6月19日 (旧暦)|6月19日]]、博多で[[バテレン追放令]]を出し、翌20日には[[ガスパール・コエリョ]]にそれを通知してキリスト教制禁をおこなった<ref name=chro501>[[#クロニック|池ら (1995) p. 501]]</ref> 。また、[[大村氏]]との対立関係から長崎港を襲撃したり、[[南蛮|南蛮船]]から通行料徴収を強要していた[[深堀純賢]]を[[海賊停止令]]違反として所領没収にするという処分が下された。
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