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{{Otheruses|柄谷行人の著作|[[栗本慎一郎]]の同名著作|反文学論 (栗本慎一郎の著作)}}
『'''反文学論'''』は、[[柄谷行人]]による文芸時評集。[[1979年]]に[[冬樹社]]から刊行され、1991年に[[講談社学術文庫]]として、2012年に[[講談社文芸文庫]]で、各改訂文庫化された(文庫解説は[[島弘之]])

なお当時柄谷と、[[ニューアカ]]の旗手と一括りにされていた[[栗本慎一郎]]にも同名の著書(文庫)がある。
 
==概要==
[[1970年代]]にアメリカからよりってき任し柄谷が著者は、[[東京新聞]]で手がけ毎月連載した時評を一冊の本にまとめたもので、現在まで唯一の文芸時評集。[[大江健三郎]]の影響を脱し『[[枯木灘]]』を書いた[[中上健次]]が「得たもの」を称揚するところから始まっている、[[ポストモダン]]における文芸の在り方を模索している
 
===小説への懐疑===
『価値について』という章の中では、「[[トーマス・エジソン|エジソン]]は[[フランス]]に生まれていたら[[詩人]]になっていたはずだ」という[[エリック・ホッファー]]の言葉を引きながら、日本文学の[[小説]]中心主義への疑問を投げかけている。[[スポーツ新聞]]が当時実質的には[[野球]]の新聞であるのと同様に、[[文芸誌]]は実質的には(文学の様式には他に[[詩]]や[[戯曲]]などがあるのに)小説の雑誌になってしまっているとし、[[梶井基次郎]]の作品がなぜ詩とみなされず小説とみなされるのかという疑問を呈し、[[劇作家]]としての資質に恵まれながら小説に価値を置く社会に生まれてしまった[[三島由紀夫]]に同情する。
 
ちなみに、柄谷著者「小説に価値を置く近代」への懐疑・吟味は、本書以外でも見受けら表明さ作家批評「[[唐十郎]]の劇と小説」という批評文のなかは、「私は小説が嫌いだ。小説が自明であるような近代の認識論的布置が嫌いで、それを切り裂きたい」などと宣言したこと<ref>「差異としての場所」所収(講談社学術文庫)に所収</ref>もあったし、『[[新現実]]』という雑誌での[[大塚英志]]との対談でも、「自分の[[文芸批評]]は小説に価値を置く[[近代]]への批判であったが、小説が没落したからやる意味がなくなった」と語っている<ref>『新現実』誌を見よ</ref>。『近代文学の終わり』(インスクリプト・刊)もそうである。
 
===言語論===
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*[[宮本輝]]『[[泥の河]]』
*[[中島梓]]の評論
 
==文庫版解説==
*[[島弘之]]
 
==出典==
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==関連項目==
*[[バージニア・ウルフなんかこわくない]]: この芝居を胸に染み入る感じだったと述懐
 
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