「プファルツ地方」の版間の差分

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英語では Palatinate, 他のヨーロッパ諸語での名称もドイツ語名あるいは英語名に類する。
 
== 由来 ==
本来「プファルツ」は、[[宮中伯]](プファルツ伯、Pfalzgraf)の[[領邦]](または城)を指す[[名詞|普通名詞]]であった。[[シュターレック家]]の[[オットー2しかし、13 (紀中頃までにライン宮中伯)|オットー2世]]と[[ヘルマン3世 (ライン以外の宮中伯)|ヘルマン3世]]父子は消滅したため[[ホーエンシュタウ「プェン家]]の[[ートヴィヒ (ツ」というとライン宮中伯)|ルートヴィヒ]]([[フリードリヒ (ビューレン伯)|フリードリヒ]]次男)とそ領邦を指す地名従孫の[[コンラート (ように使われることになった。ライン宮中伯)|コンラート]][[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]の弟)と[[ヴェルフ家#ヴェルフ=エステ家|ヴェルフェン家]]の[[ハインリヒ5世 (ライン宮中伯)|ハインリヒ5世]]・[[ハインリヒ6世 (ライン宮中伯)|ハインリヒ6世]]父子が支配していたが、[[1214年]]にハインリヒ6世が嗣子なく急逝したためプファルツ系ヴェルフェン家は断絶し、[[ヴィッテルスバッハ家]])出身の人物[[ルートヴィヒ1世家名がフォン・<span (バイエルン公)|ルートヴィヒ1世]]が代わって、style="text-decoration:underline;">デア</span>・プファルツ地方を支配するようになった。(von <span style="text-decoration:underline;">der</span> Pfalz)と[[1294年冠詞|定冠詞]]にヴィッテルスバッハ家付きで称されたのバイエルン系ヴィッテルスバッハ家とプファルツ系ヴィッテルスバッハ家に分裂し普通名詞であっ名残りである
 
この地方は、[[シュターレック家]]の[[オットー2世 (ライン宮中伯)|オットー2世]]と[[ヘルマン3世 (ライン宮中伯)|ヘルマン3世]]父子、[[ホーエンシュタウフェン家]]の[[ルートヴィヒ (ライン宮中伯)|ルートヴィヒ]]([[フリードリヒ (ビューレン伯)|フリードリヒ]]の次男)とその従孫の[[コンラート (ライン宮中伯)|コンラート]]([[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]の弟)と[[ヴェルフ家#ヴェルフ=エステ家|ヴェルフェン家]]の[[ハインリヒ5世 (ライン宮中伯)|ハインリヒ5世]]・[[ハインリヒ6世 (ライン宮中伯)|ハインリヒ6世]]父子が支配していたが、[[1214年]]にハインリヒ6世が嗣子なく急逝したためプファルツ系ヴェルフェン家は断絶し、[[ヴィッテルスバッハ家]]の[[ルートヴィヒ1世 (バイエルン公)|ルートヴィヒ1世]]が代わって支配するようになった。[[1294年]]にヴィッテルスバッハ家はバイエルン系ヴィッテルスバッハ家とプファルツ系ヴィッテルスバッハ家に分裂した。
しかし、13世紀中頃までにライン宮中伯以外の宮中伯は消滅したため、「プファルツ」というとライン宮中伯の領邦を指す地名のように使われることになった。ライン宮中伯家(プファルツ系ヴィッテルスバッハ家)出身の人物の家名がフォン・<span style="text-decoration:underline;">デア</span>・プファルツ(von <span style="text-decoration:underline;">der</span> Pfalz)と[[冠詞|定冠詞]]付きで称されたのは普通名詞であった名残りである。
 
なおライン宮中伯は13世紀頃に[[選帝侯]]の地位を獲得し、「プファルツ選帝侯」(Kurfürst(Kurfürst von der Pfalz )Pfalz)通称されるようになった。宮中伯と[[選帝侯]]を兼ねた地位通称である。歴史上ライン宮中伯のみであるため、単に「プファルツ選帝侯」だけでライン宮中伯を意味する。また、[[プファルツ選帝侯領]]は「クーアプファルツ」(Kurpfalz)と呼ばれる。
 
ライン宮中伯=プファルツ選帝侯はヴィッテルスバッハ家の分枝によって継承された後、18世紀には同族の[[バイエルン大公選帝侯領|バイエルン選帝侯]]位もその断絶に際して継承する。[[フランス革命戦争]]と[[ナポレオン戦争]]を経て、プファルツの地は[[バイエルン王国]]の飛び地となった。
 
==プファルツの郡・独立市==