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西暦は[[6世紀]]の[[ローマ]]の[[神学者]][[ディオニュシウス・エクシグウス]]によって算出された<ref name=okazaki1>[[#okazaki1996|岡崎 1996]], 第二章 中世における普遍史の展開,ディオニシウス・エウシグウス</ref>。[[525年]]、ディオニュシウスは[[教皇|ローマ教皇]][[ヨハネス1世 (ローマ教皇)|ヨハネス1世]]の委託を受けて[[キリスト教]]の[[移動祝日]]である[[復活祭]]の暦表(復活祭暦表)を改訂する際に、当時ローマで用いられていた[[ディオクレティアヌス紀元]]([[ローマ皇帝]][[ディオクレティアヌス]]の[[即位]]を紀元とする)に替えて、イエス・キリストの[[受肉]](生誕年)の翌年を元年とする新たな紀元を提案した。これはディオクレティアヌスがキリスト教の迫害者であり、その迫害者の名を残す事が疎まれたからである<ref name=okazaki1/>。
 
[[聖書]]の記述によると、イエスが[[復活 (キリスト教)|復活]]した日は[[ユダヤ教]]の[[過越]]の祭り([[春分]]の頃の最初の満月の日)の前日から三日目の[[日曜日]]([[主日]])であり、伝承では「[[ユダヤ暦]]でニサンの月の14日」([[ユリウス暦]]の[[3月25日]])とされていた。ディオニュシウスはイエスの生誕年を求めるにあたり、ディオクレティアヌス紀元279年が、伝えられるイエスの復活した日の状況と合致することを発見した<ref name=okazaki2>[[#okazaki1996|岡崎 1996]], 第二章 中世における普遍史の展開,ディオニシウスの算定方法</ref>。そこで、ここから[[復活祭]](過越の祭りと同日である[[復活祭]]の日付が532年で一巡するという当時の知識に基づき、イエスの復活した年を求め、その時のイエスの年齢が「満30歳であった」とする当時の聖書研究者の見解を根拠として、そこから31年を加え引いた年がイエスの生誕に当たるとした<ref name=okazaki2/>。これにより「ディオクレティアヌス紀元279年=キリスト紀元563年」の等式が成り立ち、この年号を出発点として他の年号が求められた<ref name=okazaki2/>。ディオニシウスはこの年号を「主の体現より (ab incarnatione Domini)」と表した<ref name=okazaki1/>。また、紀元の始点を(イエス生誕の12月25日ではなく)1月1日までさかのぼらせた<ref name=okazaki2/>。
 
=== 受容 ===