「オオムギ」の版間の差分

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[[日本]]には[[弥生時代]]の[[3世紀]]ごろ[[中国大陸]]を経て伝来し、[[奈良時代]]にはすでに広く栽培されていた。『[[類聚三代格]]』には、[[弘仁]]11年([[820年]])の[[太政官符]]として「麦は(米の)絶えたるを継ぎ、乏しきを救うこと穀の尤も良きものなり」との記述がある<ref> 「飲食事典」本山荻舟 平凡社 p78 昭和33年12月25日発行</ref>。
 
[[鎌倉時代]]以降[[二毛作]]が普及すると、寒冷と乾燥を好むオオムギは米の裏作として適していたため、栽培はさらに拡大した。[[製粉]]する必要のあるコムギに比べ、オオムギは粒のままで食べるために手間がかからず、コムギよりも熟すのが早いため米の裏作として適していたうえ、不足しがちな米の増量用としても適していたため、このころはコムギより重視され、栽培面積も広かった。明治時代には、コムギの45~47万[[町歩]]に対し、オオムギの作付面積は130万町歩と、3倍近くにまで達していた。このころまでの日本でのオオムギの主要な用途は主食用であり、[[麦飯]]として米と混炊して特に農村部では重要な主食とされた。しかし農村部では白米の飯が祭礼に際しての特別なご馳走であったこと、農民にとって米は重要な[[換金作物]]で自家消費が抑えられ転売先の都市部で白米の飯が普及したことなどから、麦飯は白米の飯に対して農村的な格の低い洗練されない食品とされた。そのため臭くてまずいと考え、蔑んで貧民や囚人の食事とみなす者も少なくなかった(俗に言う「刑務所の臭い飯」のいわれである)。その一方で、白米の飯への憧れによって[[脚気]]は近代の日本で国民病と呼ばれるまでに蔓延した。海軍ではこれへの対策としていち早く麦飯を導入し脚気患者を激減させたが、「死地に赴く兵士に白米を食べさせてやりたい」という情から白米にこだわった陸軍では日露戦争で著しい戦病死者を出した。(当時はまだビタミンが発見される前であり、麦飯の根拠は薄く伝染病説が主流だった)また、麦が配給されていた海軍でも一部の兵士がこっそり麦を捨てていたために完全な克服には至らず、脚気禍が何度も再燃している。また、こうしたことからオオムギの価格や社会的評価は低く、[[1950年]]の国会答弁において大蔵大臣の[[池田勇人]]が「私は所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持つて行きたいというのが、私の念願であります」と発言し、これが「貧乏人は麦を食え」と報道されて世論の強力な反発を受けた<ref>http://showa.mainichi.jp/news/1950/12/post-e58e.html 「昭和毎日:池田蔵相「貧乏人は麦を食え」と発言 1950年12月07日」 毎日新聞社 2015年1月12日閲覧</ref>ことなどは、この状況をよくあらわしたエピソードである。
 
その後、米の収量が増えるに連れてより用途の広いコムギ栽培に取って代わられ、オオムギの作付けは減っていき、[[1940年]]には作付面積はコムギが84万町歩、オオムギが74万町歩と逆転していた<ref> 「飲食事典」本山荻舟 平凡社 p78 昭和33年12月25日発行</ref>。また、オオムギのなかでも明治初期には六条オオムギの作付面積が広かったものが、大正時代に入るとハダカムギの栽培面積のほうが広くなった<ref>「新訂 食用作物」p192 国分牧衛 養賢堂 2010年8月10日第1版</ref>。[[高度経済成長]]期になると二毛作が経済的に引き合わなくなったためにほとんど行われなくなり、裏作作物の中心的存在であったオオムギ、とくに食用を主とする六条オオムギおよびハダカムギの栽培は激減した。それに対し、明治以降にビール生産用として導入された二条オオムギの生産は大口の需要があったため、六条オオムギやハダカムギの生産が激減した後もしばらくは盛んに生産されていたが、[[1970年代]]以降ビール原料のムギも輸入が増え、それにつれて二条オオムギの生産も減少した<ref>「新訂 食用作物」p194 国分牧衛 養賢堂 2010年8月10日第1版</ref>。