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'''白幽子'''(はくゆうし、? - [[宝永]]6年([[1709年]])<ref name="bijutsu">{{cite web|url=https://kotobank.jp/word/%E7%99%BD%E5%B9%BD%E5%AD%90-14619|title=白幽子|work=美術人名辞典([[コトバンク]]所収)|accessdate=2016-4-13}}</ref><ref name="nihonjinmei">{{cite web|url=https://kotobank.jp/word/%E7%99%BD%E5%B9%BD%E5%AD%90-14619|title=白幽子|work=デジタル版 日本人名大辞典+Plus([[コトバンク]]所収)|accessdate=2016-4-13}}</ref>)は、[[江戸時代]]前期から中期にかけて、[[京都]]郊外[[白川村 (京都府)|白川村]](現在の[[京都市]][[左京区]][[北白川]])の山中の岩窟に住んだ隠士・書家。
'''白幽子'''(はくゆうし)は、[[江戸時代]]に[[京都]]白川の山中の岩窟に住んでいた隠士。
 
[[石川丈山]]の弟子の弟にあたる人物で、禅僧[[白隠慧鶴]]に「内観の法」を伝えたことでも知られる。数百年生きた[[仙人]]という伝説があり<ref name="kyotocitylib_ref">{{cite web|url=https://www.kyotocitylib.jp/reference/lodenkikaitou.html0|title= 質問5 200年以上生きたといわる白幽子(はくゆうし)という人物について知りたい。|work=レファレンス回答|publisher=京都市図書館|accessdate=2016-4-13}}</ref>、'''白幽子仙人'''、'''白幽仙人'''、'''白川の仙人'''ともいわれた。
 
== 生涯 ==
白幽子は実在した人物で、[[文禄]]年間([[1592年]]-[[1595年]])頃には[[京都]]の白川の山中に住み、{{要出典範囲|[[石川丈山]]の弟子であった|date=2014年9月}}という。
白幽子は、[[石川丈山]](1583年 - 1672年)の弟子である石川克之の弟<ref name="bijutsu" />で、名は慈俊<ref name="bijutsu" /><ref name="nihonjinmei" />。丈山の弟子となり<ref name="nihonjinmei" />、師友の間柄であった<ref name="bijutsu" />。
 
北白川清沢口の瓜生山中に暮らした<ref name="kyotocity_sa043">{{cite web|url=https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/sa043.html|title= 白幽子巌居蹟|work=フィールド・ミュージアム京都|publisher=京都市|accessdate=2016-4-13}}</ref>。書に優れ<ref name="bijutsu" /><ref name="nihonjinmei" /><ref name="kyotocitylib_ref" />、また天文、医学にも通じていたという<ref name="bijutsu" /><ref name="nihonjinmei" /><ref name="kyotocitylib_ref" />。
[[1710年]]([[宝永]]7年)に、禅病(ノイローゼ)に苦しむ[[白隠慧鶴]]が白幽子が住む岩窟を訪れ、「[[内観]]の法」を授かって禅病が癒えたとされる。後に白隠は『[[夜船閑話]](やせんかんな)』、『[[遠羅天釜]](おらてがま)』にその時の顛末と白幽子から伝えられた「内観の法」を記している。
 
乗願院(左京区北白川仕伏町)には、白幽子が「南無阿弥陀仏」の名号を記した石碑がある。
白川乗願院(現京都市左京区)の過去帳には、白幽子は[[宝永]]6年([[1709年]])7月に没したことが記録されており、白隠が訪ねたのが[[宝永]]7年([[1710年]])とあるから、白幽子が死去した1年後ということになり矛盾がある。白隠が若いころに仙人に逢った可能性もまったくない訳ではないが、おそらくは白隠のフィクションであろうと考えられる。
 
『続近世畸人伝』巻之五附録(寛政10年)は、吉田芝ノ墓地(現在の左京区吉田神楽岡町、神楽岡東墓地)にある白幽子の墓碑を記述している。正面に「松風窟白幽子之墓」、側面に「白川山居隠士」と彫られた墓石の背には「宝永六己丑初秋二十五日」、すなわち[[宝永]]6年([[1709年]])[[7月25日 (旧暦)|7月25日]]の日付があり<ref name="kinseikijin-172" />、これが歿日とみなされる。なお、宝永6年([[1709年]])は白川山中を出た年であるという伝承もある<ref name="bijutsu" />。
京都の[[真如堂]]に、かつて白幽子の墓と伝えられる石碑があったといい、そこには没年が[[宝永]]6年[[8月9日 (旧暦)|8月9日]]と刻まれていたという。一説には、[[享年]]240であったともされる。
 
=== 白隠と白幽子 ===
禅僧の[[1710白隠慧鶴]](1686 - 1769年)は、若いころに[[美濃国]]([[宝永霊松院]]7年)(現在の岐阜県岐阜市)で禅打ち込んだが禅病」、現代で言うところのノイローゼや肺患に苦しむ[[んだ。京都の白川村の山中に暮らす白幽子の噂を聞いた白隠慧鶴]]がは、美濃から白幽子が住む岩窟を訪れ、「[[内観]]の法」を授かって禅病が癒えたとされる。後に白隠は『[[夜船閑話]](やせんかんな)』、『[[遠羅天釜]](おらてがま)』にその時の顛末と白幽子から伝えられた「内観の法」を記している。
 
白隠の聞いた噂では、白幽子が「石川丈山の師」であり、年齢は180歳から240歳、村人は白幽先生(白幽真人、白幽仙人)と呼ぶという。実際に対面した白隠は、白幽子は膝まで髪が届く老翁で、『[[中庸]]』『[[老子]]』『[[金剛経]]』を置いた机の前で瞑目端座していたと描写する<ref name="kyotocitylib_ref" />。
 
白隠は、白幽子を訪れたのを[[宝永]]7年([[1710年]])と記している。この年代を信じれば、宝永6年([[1709年]])没という説とは齟齬をきたす。
 
== 伝説 ==
=== 近世畸人伝の記述 ===
[[伴蒿蹊]]『[[近世畸人伝]]』巻之五(寛政2年(1790年))<ref name="kinseikijin-88">{{cite web|url=http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/kijinden/kijinden_88.html|title= 白幽子|work=近世畸人伝 巻之五|publisher=日本文化研究センター|accessdate=2016-4-13}}</ref>、および『続近世畸人伝』巻之五附録(寛政10年)<ref name="kinseikijin-172">{{cite web|url=http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/kijinden/kijinden_172.htmll|title= 白幽子|work=続近世畸人伝 巻之五附録|publisher=日本文化研究センター|accessdate=2016-4-13}}</ref>に事績が載る。
 
正編では白隠の著作に基づき、「石川丈山の師」であったとされている<ref name="kinseikijin-88" />。白隠の訪問時に白幽子は年齢200歳過ぎとも思われる年齢で、里人は仙人と呼んでいたとある<ref name="kinseikijin-88" />。伴蒿蹊は正編の評で、白幽子は白隠が自説を唱えるために設けた人物ではないかという疑いを示している<ref name="kinseikijin-88" /><ref name="kinseikijin-172" />。続編では、相模国金沢の僧若霖が白幽子を訪ねた際に作った漢詩二首と、白幽子自筆の文章の写しを掲載、吉田芝ノ墓地の墓碑(上述)を紹介し、実在の人物であることを確認している<ref name="kinseikijin-172" />。伴蒿蹊は墓碑の日付と白隠の訪問年の矛盾も指摘しており、白隠が白幽子を仙人とすることで説を高めようとしたか、老後の白隠の記憶違いの可能性を述べている<ref name="kinseikijin-172" />。
 
== 遺跡 ==
=== 白幽子の墓 ===
吉田芝ノ墓地の墓碑については、上述の通り『続近世畸人伝』に記載があるが、「白幽子の墓が吉田芝ノ墓地(あるいは吉田神葬墓地)で発見され、架空の人物とされていた白幽子の実在が確認された」時期については明治時代に入ってからという記述もある<ref name="kyotocitylib_ref" /><ref name="kyotocity_sa220">{{cite web|url=https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/sa220.html|title= 重修白幽子墓|work=フィールド・ミュージアム京都|publisher=京都市|accessdate=2016-4-13}}</ref>。
 
吉田芝ノ墓地にあった墓石は、1901年(明治34年)に何者かによる盗難を受けた<ref name="kyotocitylib_ref" /><ref name="kyotocity_sa220" />。1903年(明治36年)、[[富岡鉄斎]]が墓石を再建し、吉田神葬墓地内の現在地(左京区浄土寺下馬場町、{{ウィキ座標度分秒|35|01|24.9|N|135|47|20.8|E|format=dms|display=inline}})に据えている<ref name="kyotocitylib_ref" /><ref name="kyotocity_sa220" />。
 
なお、盗難された墓石は、その後東京で発見された<ref name="kyotocity_sa220" />。1946年、[[上京区]]の[[法輪寺 (京都市上京区)|法輪寺]]の後藤伊山住職(白隠全集の編纂にも携わった)によって京都に持ち帰られ、同寺に置かれている<ref name="kyotocity_sa220" />。
 
=== 白幽子巌居蹟 ===
瓜生山中(左京区北白川清沢口町、{{ウィキ座標度分秒|35|02|18.0|N|135|48|00.6|E|format=dms|display=inline}})には白幽子が暮らした岩窟があり、富岡鉄斎が1906年に建てた「白幽子巌居蹟」の石碑がある<ref name="kyotocity_sa043" />。
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
==参考==
*『白隠 ―禅画の世界』 芳澤勝弘著、中公新書、2005