「北条綱成」の版間の差分

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特に天文15年([[1546年]])の[[河越城の戦い|河越夜戦]]では、半年余りを籠城戦で耐え抜いた上に本軍と呼応して出撃し敵を突き崩すなど、北条軍の大逆転勝利に大功を立てた。この功績で[[川越城|河越城]]主も兼ねることになったとされる。その後も北条家中随一の猛将として活躍し、[[弘治 (日本)|弘治]]3年([[1557年]])の第三次[[川中島の戦い]](上野原の戦い)では武田方への援軍として上田に入り[[上杉謙信]]勢を撤退させ、[[里見義弘]]・[[太田資正]]との[[国府台合戦]]では奇襲部隊を率いて里見軍を撃砕した。
 
『[[甲陽軍鑑]]』によれば、[[永禄]]12年([[1569年]])10月6日の[[武田信玄]]との[[三増峠の戦い]]では、綱成指揮下の鉄砲隊が武田軍の左翼大将[[浅利信種]]などを討ち取ったという。元亀2年(1571年)の[[駿河国|駿河]][[深沢城]]([[静岡県]][[御殿場市]])の戦いも武田方に抗戦している。[[元亀]]2年([[1571年]])10月、氏康が病死すると、綱成も家督を子の氏繁に譲って[[隠居]]し、剃髪して'''上総入道道感'''と名乗った。
 
[[天正]]15年([[1587年]])5月6日、病のために死去、[[享年]]73。墓所は玉縄の[[龍寶寺]]。