「佐味親王」の版間の差分

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== 経歴 ==
[[平城天皇|平城]]朝において、佐味親王は母の[[多治比真宗]]と同居していたが、当時権勢を振るっていた[[藤原仲成]]から力ずくで関係を持たされそうになった仲成の妻の叔母がこれを嫌って、佐味親王の邸宅に逃げ込む。しかし仲成はこの叔母を追いかけて邸宅に上がり込み、叔母を見つけると口汚く罵った上で暴行を加えたという<ref>『日本後紀』大同5年9月11日条</ref>。この事件との関係は明らかでないが、[[大同 (日本)|大同]]3年([[808年]])佐味親王が所有していた[[尾張国]]の[[墾田]]8町が、民に対して妨げになっているとの理由で没収され、[[公田]]に編入されている<ref>『[[日本後紀]]』大同3年正月29日条</ref>。[[弘仁]]3年([[812年]])[[品位 (位階)|四品]]に叙される<ref>『日本後紀』弘仁3年正月7日条</ref>。弘仁8年([[817年]])[[弾正台|弾正尹]]<ref>『日本後紀』弘仁8年10月1日</ref>、弘仁14年([[823年]])[[中務省|中務卿]]<ref>『日本後紀』弘仁14年9月29日</ref>を歴任した
 
[[弘仁]]3年([[812年]])[[品位 (位階)|四品]]に叙される<ref>『日本後紀』弘仁3年正月7日条</ref>。弘仁8年([[817年]])[[弾正台|弾正尹]]<ref>『日本後紀』弘仁8年10月1日</ref>、弘仁14年([[823年]])[[中務省|中務卿]]<ref>『日本後紀』弘仁14年9月29日</ref>を歴任した。

[[天長]]2年([[825年]])閏7月16日[[崩御#薨去|薨去]]。[[享年]]33。[[淳和天皇]]の[[践祚]]の日に[[朝堂]]に参列していたが、急に重病のために倒れ伏して[[驢馬]]の鳴き声に似た呼吸を始めたため、[[輿]]に乗り退出したが、幾日も経たないうちに没したとされる<ref name="a">『日本後紀』天長2年閏7月16日条</ref>。ただし実際には、淳和天皇の践祚は弘仁14年(823年)4月で、同年9月に中務卿に任ぜられ、2年後の天長2年(825年)に薨去していることから、厳密には事実と異なっている。
 
== 人物 ==