「エマニエル夫人」の版間の差分

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== 概要 ==
[[タイ]]出身の女性作家([[フランス]]人[[外交官]]の妻)[[エマニュエル・アルサン]](41歳)が[[1973年]]に発表した[[官能小説]]『エマニュエル』を、フランスの映画製作会社社長[[イヴ・ルッセ=ルアール]](34歳)が映画化したソフト[[ポルノ]]。
 
[[1974年]]5月、フランスの若き新大統領、[[ジスカール・デスタン]]大統領が、[[表現の自由]]を尊重して官憲による[[検閲]]を廃止した(ポルノ解禁)。その結果、ソフトポルノ映画『エマニエル夫人』の一般の映画館での上映が実現した。『エマニエル夫人』はフランスで興行成績1位の大ヒットとなり、1年で400万人がこの映画を観るという、"映画界の革命"を起こした。[[ピエール・バシュレ]]が作曲して歌った主題歌『エマニエル』も大ヒット。以後フランスでは、『エマニエル夫人』が12年間もロング上映された。
 
さらに、[[ヒッピー]]やフリーセックスの流行という時代背景のなか、『エマニエル夫人』は世界各国の映画館でも上映され、世界の3億人がこの映画を観るという世界的大ヒットとなった。以後、『エマニエル』シリーズが世界各地で、[[亜流]]も含めて70本以上も作られている。
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翌[[1975年]]には『[[続・エマニエル夫人]](エマニエル2)』が上映されて再び大ヒットし(日本での上映は[[1976年]])、[[1977年]]にはシリーズ完結編の『[[さよならエマニエル夫人]](エマニエル3)』が上映されヒット作となっている。
 
制作はフランスの[[CM]][[プロデューサー]]だったイヴ・ルッセ=ルアールで、まだ映画制作会社を設立したばかりの、”映画の素人”が初めて取り組んだ映画作りであった。彼は友人で映画配給会社の御曹司セルジュ・セルツキーから制作費(当時の価格で)5000万円を借り、監督には知人のジュスト・ジャカンを起用した。フランスでは毎年夏になると国民が[[バカンス]]へ出かけてしまうため、バカンスの前に『エマニエル夫人』を上映してヒットさせることが成功の絶対条件であった。しかし、当時のフランスの大統領は保守的な[[ポンピドゥー]]大統領([[ド・ゴール]]大統領の元側近)で、『エマニエル夫人』の上映に対しては、検閲などによる保守層からの大きな反発が予想された。1974年4月には、文化大臣から製作のイヴへ上映禁止の通知が届き、イヴは文化省との交渉を余儀なくされる。ところが、1974年5月、大統領がポンピドゥーからジルカール・デスタンに代わって検閲が廃止されたため、『エマニエル夫人』の一般劇場での上映が実現した。その意味で、『エマニエル夫人』は”フランスの表現の自由の象徴”であるとうことができる。
 
監督には、制作イヴ・ルッセ=ルアールの知人でCMとファッションの写真家として活動していた[[ジュスト・ジャカン]]が起用された。ジュストにとって初めての映画監督である。エマニュエル・アルサンの原作『エマニュエル』では主人公の女性はアジア人であったが、監督ジュストは[[ファッションモデル]]として活動していた[[オランダ]]人の無名女優[[シルビア・クリステル]]を主演に抜擢し、『エマニエル夫人』成功の大きな要因となった。