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Koshoku (会話 | 投稿記録)
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その頃70歳を過ぎていたが、人材を重んじ、脱世の議論を好んだといわれる。翌年に没した。
 
魏の重臣となった華歆・王朗や、陳紀の子[[陳羣]]らとの親交は生涯を通して続き、手紙のやり取りをして旧交を温めたという。あるとき、王朗は劉備が没したことを知り、許靖に手紙を送って、劉禅・[[諸葛亮]]らの帰順を促そうとした。しかし許靖は既に没していた(『魏略』)。
 
また、許靖は親類縁者や同郷の人を引き取って養育したという。