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しかし、[[622年]]に{{仮リンク|カッパドキアの戦い (622年)|en|Heraclius' campaign of 622|label=カッパドキアの戦い}}でヘラクレイオスが反撃へ転じ、被占領地を避け黒海東南部沿岸から直接中枢部イラクへ侵入した。サーサーン朝は[[アヴァール]]と共同でヘラクレイオス不在の首都[[コンスタンティノポリス]]を包囲し、呼応して{{仮リンク|第三次ペルソ・テュルク戦争|en|Third Perso-Turkic War}}も起こったが、コンスタンティノポリスでは撃退される({{仮リンク|コンスタンティノープル包囲戦 (626年)|en|Siege of Constantinople (626)|label=コンスタンティノープル包囲戦}})。
 
[[627年]]、ヘラクレイオスの[[親征|親卒]]する東ローマ軍がクテシフォン近郊へメソポタミアに侵攻({{仮リンク|すると、[[ニネヴェの戦い (627年)|en|Battle of Nineveh (627)|label=ニネヴェ]]でサーサーン朝軍は敗北し、クテシフォン近郊まで東ローマ軍戦い}})、進撃を許す。ホスロー2世の長年に渡る戦争と内政を顧みない統治で疲弊を招いていた結果、翌[[628年]]にクテシフォンで反乱が起こりホスロー2世は息子の{{仮リンク|カワード2世|en|Kavadh II}}に裏切られ殺された。
 
[[File:Cherub plaque Louvre MRR245 n2.jpg|thumb|280px|right|{{仮リンク|ホスロー2世|en|Khosrau II}}を屈服させるヘラクレイオス1世。(十字架に描かれた七宝製画像。12世紀後半)]]
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* [[575年]]:ホスロー1世、[[イエメン]]を占領。
* [[616年]]:{{仮リンク|ホスロー2世|en|Khosrau II}}、[[東ローマ帝国|東ローマ]]領の[[歴史的シリア|シリア]]、[[エジプト]]を占領。
* [[627年]]:[[ニネヴェの戦い (627年)|ニネヴェの戦い]]で東ローマ・[[ヘラクレイオス王朝|ヘラクレイオス朝]]の[[ヘラクレイオス]]に敗れ、クテシフォン近郊侵攻、{{仮リンク|ニネヴェの戦い (627年)|en|Battle of Nineveh (627)|label=ニネヴェの戦い}}で敗北
* [[628年]]:ホスロー2世暗殺、息子の{{仮リンク|カワード2世|en|Kavadh II}}はヘラクレイオスと和睦、占領地を奪回される。
* [[637年]]:[[ディシーヤの戦い]]でイスラム軍に敗れ、[[クテシフォン]]を占領される。
* [[642年]]:ハマダーン近くの[[ニハーヴァンドの戦い]]で敗北。
* [[651年]]:[[ヤズデギルド3世]]が逃亡先で暗殺され、サーサーン朝滅亡。