「コムネノス王朝」の版間の差分

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[[File:Byzantium in 1170(3).PNG|250px300px|right|thumb|1170年のコムネノス王朝東ローマ帝国]]
'''コムネノス王朝'''(Komnenos, [[ギリシア語]]表記:{{lang|el|Κομνηνός}})は、[[東ローマ帝国|ビザンツ帝国]]中期の王朝([[1081年]] - [[1185年]])。
 
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アレクシオスは爵位体系や通貨を改革したほか、軍事奉仕と引き換えに一定の地域の徴税権などを認める[[プロノイア]]制度を導入し、[[ドゥーカス王朝|ドゥーカス家]]や各地の有力軍事貴族たちと姻戚関係を結んで、皇族に相当するコムネノス・ドゥーカス一門を盟主とする軍事貴族の連合政権という形で帝国を再編した。こうして国内を安定させると[[ヴェネツィア共和国]]の支援を受けて海軍力を再建し、西欧へ傭兵を要請した。西欧への傭兵派遣依頼は[[十字軍]]という想定外の結果を生んで対応に苦慮することになった。その間にセルジューク朝から小アジア西部を奪回し、[[クマン人]]の援軍を得てペチェネグ人を打ち破った。
 
===善良なるヨハネス===
[[Image:Jean_II_Comnene.jpg|right|thumb|180px150px|ヨハネス2世コムネノス]]
「善良なるヨハネス」と呼ばれて国民に尊敬された長男のヨハネス2世も贅沢を慎み、父の政策を継承して各地へ[[親征]]して戦いを進めて小アジアの沿岸部をほぼ全て奪回し、[[アンティオキア公国]]に宗主権を認めさせるまでに帝国の勢威を回復した。また北方から侵攻してきた[[ペチェネグ|ペチェネグ族]]をベロイアの戦いで([[:en:Battle of Beroia|Battle of Beroia]])壊滅させ、[[ハンガリー王国]]の介入を退けた。
 
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===マヌエル1世の野望と挫折===
[[Image:Manuelcomnenus.jpg|right|thumb|120px250px|マヌエル1世コムネノス]]
[[File:Byzantium in 1170(3).PNG|250px|right|thumb|1170年の東ローマ帝国]]
こうした繁栄を受けて3代目の皇帝[[マヌエル1世コムネノス]]は、古代[[ローマ帝国]]の復興を目指して[[イタリア遠征]]、[[キリキア]]・[[シリア地方]]への遠征、[[神聖ローマ帝国]]との外交戦を繰り広げ、盛んに建築活動を行なった。しかしマヌエル1世の積極的な外交政策や享楽的な生活は財政支出の増大を生んで帝国の財政を悪化させた。また祖父アレクシオス1世の代から特権を得ていたヴェネツィアの増長ぶりを見たマヌエルは、[[1171年]]にヴェネツィア人の一斉逮捕を行ったために、関係が悪化し、のちの[[第4回十字軍]]を生む結果となる。内政面でもコムネノス・ドゥーカス一門の軍事貴族は代を経るにしたがって人数が増加するとともに、各地に根付いて強大化し、中央政府から一定の独立性を保持して、あたかも封建領主のようにふるまった。このため皇帝も貴族たちを統御しきれず、なかには半独立状態になる者まで現れた。数次にわたる十字軍と首都市民との軋轢も次第に深まり、軍事協力の見返りとしてヴェネツィアやジェノヴァに貿易特権を与えたことで国内の商工業は衰退し、関税収入も失われた。