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{{出典の明記|date=2015年8月}}
{{競走馬
|画 = [[File:Diamond Jubilee.jpg|240px]]
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|種 = [[サラブレッド]]
|生 = [[1897年]]
|死 = [[1923年]][[7月1018日]]<ref>Thoroughbred Heritage</ref>
|父 = [[セントサイモン]]
|母 = [[パーディタ (競走馬)|パーディタ]]
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|調 = リチャード・マーシュ([[イギリス]])
|績 = 13戦6勝
|金 = 2900028,185ポンド+
}}
'''ダイヤモンドジュビリー'''(''Diamond Jubilee''、[[1897年]] - [[1923年]])は、[[1900年19世紀]]末から[[イギリスクラシック三冠20世紀]]を制初頭に活躍した[[イギリス]]の[[競走馬]][[競走種牡の血統#競走馬の血縁関係|全兄]]である。[[フロリゼル (18911900生)|フロリゼル]][[パーシモン]]、サンドリンガムがいる。馬名は[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィトリア女王ラシック三冠]]在位60周年記念てつけられもので、生産者・[[。種牡としては]]は[[エドワード7世 (イギリス王)|アルバート・エドワード皇太子(のちのエドワード7世)ゼンチン]]である優れた産駒を残した
 
== ・性格 ==
[[エドワード7世 (イギリス王)|アルバート・エドワード皇太子(のちのエドワード7世)]]によって生産・所有された。母[[パーディタ (競走馬)|パーディタ]]はエドワード7世がデイヴィッド・ファルコナーから900ギニーで購入した馬で、[[セントサイモン]]との間に何頭も活躍馬を出した。[[競走馬の血統#競走馬の血縁関係|全兄]]に[[フロリゼル (1891年生)|フロリゼル]]、[[パーシモン]]、サンドリンガムがいる。
母[[パーディタ (競走馬)|パーディタ]]はエドワード7世がデイヴィッド・ファルコナーから900ギニーで購入した馬で、[[セントサイモン]]との間に何頭も活躍馬を出した。ダイヤモンドジュビリーはその最後の活躍馬である。また、父セントサイモンから見ても最後の[[クラシック (競馬)|クラシック]]ホースである。1897年にサンドリンガム王室牧場で生まれたダイヤモンドジュビリーは2歳時にデビューするも気難しい性格のため1勝に終わった。なかなか成績が安定せず、大抵の[[騎手]]は満足に騎乗すらできないので、やむなく担当[[厩務員]]の[[ハーバート・ジョーンズ]]を乗せてクラシックに挑んだところ、[[2000ギニー]]、[[ダービーステークス|エプソムダービー]]、[[セントレジャーステークス]]の3競走に勝利し史上9頭目の三冠を達成した。この年はほかにニューマーケットステークス、[[エクリプスステークス]]に勝っている。翌年はさらに気性が悪くなりプリンセスオヴウェールズステークス2着、[[ジョッキークラブステークス]]3着と奮わず[[種牡馬]]入りした。
 
馬名は[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]在位60周年を記念してつけられたものである<ref>Thoroughbred Bloodlines</ref>。
種牡馬となったダイヤモンドジュビリーへの期待は大きく、セントサイモンの後継種牡馬として、また兄パーシモンが成功したことから[[種付け]]料は300[[ギニー]]とかなり高く設定されていた(父セントサイモンの同期間の種付け料は500 - 600ギニー)。しかしジョッキークラブステークス優勝馬サンシーを出しただけで[[1906年]]にすぐに売価30000[[ポンド (通貨)|ポンド]]で[[アルゼンチン]]に売られていった。アルゼンチンは当時馬産に力をいれており、[[オーモンド]]など三冠馬をほかにも導入する実績があった。
 
気性はセントサイモン産駒の中でも最悪に近い。父をある意味で超える攻撃性があり、まともに扱えるものは少なかった。激しい気性でまともなレースにならないことも多く、レースそっちのけで騎手を振り落とそうとしたり、パドックでは見物人を蹴飛ばそうとしたり、スタート前に騎手を振り落として暴走したりと無茶苦茶で、2歳時は6戦して1勝に終わっている。大抵の[[騎手]]はまともに乗れず、挙句の果てに踏み殺されそうになったりで、やむなく担当[[厩務員]]の[[ハーバート・ジョーンズ]]を乗せてクラシックに挑んでいる。
アルゼンチンは兄やほかの[[セントサイモン系]]種牡馬と競合するイギリスとは状況が違った(同時期にピーターマリッツバーグというセントサイモンの上級産駒が輸入されているがやはり成功を見ている)。ダイヤモンドジュビリーの[[南アメリカ]]での[[産駒]]にはAs de Espadas、Smasher、Moloch、Last Reason、Campanazo、Ricaurteらがおりアルゼンチンのほか[[チリ]]や[[ブラジル]]、[[ペルー]]、[[ウルグアイ]]で成功したものも多い。アルゼンチンの1914-1916,1921年の4度[[リーディングサイアー|種牡馬首位]]はダイヤモンドジュビリーであり、チリでは産駒が6度首位種牡馬になっている。
 
== 競走成績・種牡馬成績 ==
日本へはイギリスに残した産駒の一頭[[ダイヤモンドウェッディング|ダイヤモンドウエッディング]]が[[1909年]]に国立奥羽種畜牧場によって導入された。明治・大正期の日本馬産への貢献は大きく、初期のサラブレッドに少なからぬ影響を与えた。
勝った大レースは[[2000ギニー]]、[[ダービーステークス|エプソムダービー]]、[[セントレジャーステークス]]の三冠の他、ニューマーケットステークス、[[エクリプスステークス]]がある。2000ギニーは4馬身差、ダービーは兄パーシモンが記録したレコードと同タイム、セントレジャーはレース前20分も暴れた上での勝利、エクリプスステークスもレコードと気性さえクリアできれば非常に強い馬であった。
 
種牡馬としては1902年からサンドリンガム王立牧場で、1906年からアルゼンチンのLas Ortigas馬牧場で供用された。イギリスでは既にセントサイモン系種牡馬が多数存在している状況下あまり活躍できず(1902年の種牡馬ランキング1位は全兄パーシモン、2位は父セントサイモン。全兄フロリゼルも上位に入っていた)、ジョッキークラブステークス勝ち馬サンシーを出した程度に終わったが、アルゼンチンでは大成功し1914-1916,1921年の4度[[リーディングサイアー|種牡馬首位]]になった。種牡馬の父としても優秀で、短期間ではあるが南米で一大父系を形成した。
 
== エピソード ==
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|mmmm = Teterrima [[ファミリーナンバー|F-No]].[[7号族|7-f]]
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== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
== 外部リンク ==