「ダイヤモンドジュビリー (競走馬)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Galopin (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
Galopin (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
25行目:
 
気性はセントサイモン産駒の中でも最悪に近い。父をある意味で超える攻撃性があり、まともに扱えるものは少なかった。激しい気性でまともなレースにならないことも多く、レースそっちのけで騎手を振り落とそうとしたり、パドックでは見物人を蹴飛ばそうとしたり、スタート前に騎手を振り落として暴走したりと無茶苦茶で、2歳時は6戦して1勝に終わっている。大抵の[[騎手]]はまともに乗れず、挙句の果てに踏み殺されそうになったりで、やむなく担当[[厩務員]]の[[ハーバート・ジョーンズ]]を乗せてクラシックに挑んでいる。
 
引退後、[[アルゼンチン]]に渡ってからも性格は改善しなかった。あるとき体調を崩し、その危険性から薬を与えられないので、棒に薬を塗って目の前に差し出し噛みつかせた、馬房に迷い込んだ浮浪者の腕を食いちぎろうとした、脱走して近くの町に逃げ込んだ際は、行く手を遮ろうとした男子生徒の輪に、逆に怒り狂って突撃した(その後も暴走を続けて最終的に駅で捉えられた)等、数々の逸話が伝わっている。<ref>Thoroughbred Heritage</ref>
 
== 競走成績・種牡馬成績 ==
30 ⟶ 32行目:
 
種牡馬としては1902年からサンドリンガム王立牧場で、1906年からアルゼンチンのLas Ortigas馬牧場で供用された。イギリスでは既にセントサイモン系種牡馬が多数存在している状況下あまり活躍できず(1902年の種牡馬ランキング1位は全兄パーシモン、2位は父セントサイモン。全兄フロリゼルも上位に入っていた)、ジョッキークラブステークス勝ち馬サンシーを出した程度に終わったが、アルゼンチンでは大成功し1914-1916,1921年の4度[[リーディングサイアー|種牡馬首位]]になった。種牡馬の父としても優秀で、短期間ではあるが南米で一大父系を形成した。
 
== エピソード ==
* 馬体そのものはすばらしかったと伝えられるが、[[性格]]は極めて荒く、セントサイモン産駒の中でも最悪と言われた。[[厩務員|馬丁]]の指を食いちぎったことがあるとされ、一時は去勢も検討された。
* ハーバート・ジョーンズはこのあと「国王の騎手」として成功し、のちには同じ[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]の持ち馬ミノルでもエプソムダービーに優勝し名声を得ている。
* 1900年はダイヤモンドジュビリーの活躍によりアルバート・エドワードが29000ポンドの賞金を獲得、馬主ランキング1位となった。
* 1000ギニー、オークスともに同じく父をセントサイモンとするウイニフレッダ、ラロッチェが勝利し、セントサイモン産駒がクラシックを史上初めて全勝した。この年のセントサイモン産駒はわずか27勝しか挙げられなかったが、総獲得賞金は58,625ポンドという記録的な額に達した。
* アルゼンチンでは本馬を初めセントサイモン系が1911年から1926年の16年間に11度の種牡馬首位を獲得したが、その後本国(イギリス)と同じ道をたどりすべて滅びた。ダイヤモンドジュビリーの直系子孫も1950年代には完全に滅んでいる。ただし南アメリカや[[日本]]に古くから根付く[[ファミリーライン|牝系]]をさかのぼればダイヤモンドジュビリーの名をしばし見ることができる。
 
== おもな産駒 ==