削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
9行目:
最盛期には[[ミシガン州]]、[[メリーランド州]]、[[カナダ]]の[[トロント]]、[[モントリオール]]へとテリトリーを拡大、弱小団体とは呼び難い勢力を持つに至った。[[ボボ・ブラジル]]、[[ジョニー・バレンタイン]]、[[アブドーラ・ザ・ブッチャー]]、[[ザ・シーク]]、[[アーニー・ラッド]]ら一流選手が多数集結、パワーズとバレンタイン、ラッドとブッチャーとの抗争などの名物カードも生み、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]のプロレス誌上ではNWA、[[アメリカン・レスリング・アソシエーション|AWA]]、[[WWE|WWWF]]に次ぐメジャー団体と認知されていた時期もあった。
 
しかし[[1973年]]に入ると勢力は衰退、縮小していく。12月10日に[[東京都|東京]]で行われた世界戦において、第14代王者となっていたパワーズが[[アントニオ猪木]]に敗れ王座が[[日本]]に渡る。その後もパワーズは[[1974年]]3月には猪木を招聘して、クリーブランドで世界戦を行うなど、[[1975年]]の初めまでは同地で興行を行っていた。しかし前年に一時プロレス界から離れていたマルティネスが関わった新団体「[[IWA世界ヘビー級王座#日本以外のIWA王座|IWA]]」に吸収されるかたちで、1975年半ばまでには事実上活動を停止して、消滅状態となった(このIWAも1975年中には活動停止となっている)。
 
以上のように米国プロレス史全般からみれば短命のローカル団体にすぎず、設立経緯や活動内容、歴代王者等に不明な点も多々ある。しかし猪木が世界ヘビー級王座を1973年の獲得から[[新日本プロレス]]の看板タイトルとして[[1981年]]まで長く保持したこと、また日本でも高名な大物選手が多く参加していたこと等により、日本には愛着や関心を持つプロレスファンが多い。
 
== 新日本プロレスとの関係 ==
一般にNWFと[[新日本プロレス]]の結びつきは[[1966年]]に[[東京プロレス]]に初来日して以来の[[ジョニー・パワーズ]]と[[アントニオ猪木]]の関係によるものとされている。しかし実際にはNWF設立以前の[[1969年]]に当地をサーキットして、パワーズとも旧知の[[坂口征二]]によるブッキングと考えるのが妥当である。
 
[[日本]]では「パワーズが図らずも猪木に王座を奪われたため、隆盛を誇っていたNWFが一転凋落に向かった」という伝説が長年史実として語られてきた。現在はパワーズが新日本プロレスに王座を売却したとの見方が通説になっている。