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オーストラリア・[[ニューサウスウェールズ州]]のクィンビャンで生まれる。
 
15歳から18歳までカートで経験を積むと、[[1995年]]にオーストラリアの[[フォーミュラ・フォード]]にフル参戦した。ランキング2位で終え、[[1996年]]に渡英し[[イギリス]]のフォーミュラ・フォードに参戦する。ランキングは惜しくも2位となるが、年末のフェスティバルでは他を寄せ付けず優勝を果たす。
 
[[1997年]]はイギリス[[フォーミュラ3|F3]]に参戦し、1勝を挙げる。[[マスターズF3|マールボロマスターズ]]では3位。その年でF3を卒業し、[[メルセデス・ベンツ|メルセデス]]のジュニアチームと契約する。
 
[[1998年]]はメルセデスで[[FIA GT選手権|FIA-GT選手権]]を戦う。[[ベルント・シュナイダー (レーサー)|ベルント・シュナイダー]]らと好戦を演じ、5勝、シリーズ3位で終える。
 
[[1999年]]は、[[ル・マン24時間レース|ル・マン]]での活動が主となった。しかし、彼の運転する[[メルセデス・ベンツ・CLR]]には、走行中に車体の[[グラウンド・エフェクト・カー|グラウンド・エフェクト]]が急激に失われるという、車体構造に設計上の致命的な欠陥があった。予選中と決勝日のウォームアップ走行中に、車体が離陸し舞いあがった後路面に叩きつけられるという事故が二度も続いた。二度の事故で車両は修復不能となったため、ウェバーは決勝に出走することができなかった。なお、同チームは対策のためカナードを追加した車両を決勝に出走させたが、[[ピーター・ダンブレック]]がドライブ中に、再度同様の事故に見舞われた。そのアクシデントでメルセデスがスポーツカー部門から撤退したことを受けて、ウェバーはフォーミュラに戻った。その後、初めてF1マシン([[アロウズ]]のテスト)を経験した。
 
[[2000年]]から国際[[フォーミュラ3000|F3000]]に参加。アロウズのF3000でシーズンを戦う。序盤は得点を重ねるも中盤で失速。ランキング2位から大きく離される3位(1勝)でシーズンを終える。
 
[[2001年]]は名門スーパー・ノヴァで戦う。そこで3勝しランキング2位につける。だが[[ジャスティン・ウィルソン]]に完敗だった。この年は、[[ベルギー]]の[[スパ・フランコルシャン]]で開催されたレースで起きたアクシデントにより、[[靱帯]]を損傷している。
 
=== F1時代 ===
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;2007年
[[ファイル:Mark_Webber_2007_USA.jpg|right|thumb|230px|[[2007年]][[アメリカグランプリ|アメリカGP]]]]
マシンの信頼性不足でチームメイトの[[デビッド・クルサード]]とともに苦労するが、豪雨となった[[2007年ヨーロッパグランプリ|ヨーロッパGP]]で3位表彰台を獲得(クルサードも5位)。マシンなどに問題があり決勝では苦労しているが、ほとんどのGPで予選Q3(トップ10)に進出し、持ち前の予選での速さを見せ予選番長ぷりを見せつけている。第15戦[[2007年日本グランプリ (4輪)|日本GP]]の決勝では、[[食傷|食あたり]]を起こしレース中に[[嘔吐]]するなど最悪な体調の中、驚異的なパフォーマンスを披露し2位表彰台を獲得できる位置にいたものの、[[セーフティカー]]先導時に姉妹チームの[[スクーデリア・トロ・ロッソ|トロ・ロッソ]]のドライバーである[[セバスチャン・ベッテル]]に後ろから衝突されリタイアとなる。彼は初めはベッテルを強く非難していたが、後に[[マクラーレン]]の[[ルイス・ハミルトン]]がセーフティカー先導時に故意にブレーキングをして事故に発展させたという疑惑が出ると、ハミルトンへの批判が強くなった。
 
;2008年
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;2009年
[[ファイル:Podium 2009 Britain cropped.jpg|200px|thumb|[[2009年イギリスグランプリ|2009年イギリスGP]]表彰台にて]]
自身が主催するイベント「マーク・ウェバー・ピュア・[[タスマニア]]・チャレンジ」の競技中において、足を骨折したためウィンターテストの半分をキャンセルするという、最悪な状態から始まる。
 
開幕戦地元の[[2009年オーストラリアグランプリ|オーストラリア]]でも足を引きずる場面が見受けられ、不安視されたが、[[エイドリアン・ニューウェイ]]が開発したRB5を操り、第2戦[[2009年マレーシアグランプリ|マレーシアGP]]では6位入賞(レース距離が75%を満たしていなかったので、F1史上5度目となるハーフポイントとなり1.5ポイントを獲得)。続く第3戦[[2009年中国グランプリ|中国GP]]では、07年日本GPを思わせるような雨の中、この年からチームメイトとなったベッテルに敗れはしたものの、開幕2連勝中の[[ブラウンGP]]の[[ジェンソン・バトン]]とのバトルを繰り広げ、自己最高位である2位をもぎ取るなど、開幕前の不安とは裏腹にまずまずのスタートダッシュを切った。