「トマス・ホッブズ」の版間の差分

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=== 概要 ===
この著作において、ホッブズは人間の[[自然状態]]を闘争状態にあると規定する。彼はまず、生物一般の生命活動の根元を自己保存の本能とする。その上で、人間固有のものとして将来を予見する理性を措定する。理性は、その予見的な性格から、現在の自己保存を未来の自己保存の予見から導く。これは、現在ある食料などの資源に対する無限の欲望という形になる。なぜなら、人間以外の動物は、自己保存の予見ができないから、生命の危険がおびやかにさらされたときだけ自己保存を考えるからである。ところが人間は、未来の自己保存について予見できるから、つねに自己保存のために他者より優位に立とうとする<ref>福田歓一『政治学史』p.322、レオ・シュトラウス『ホッブズの政治学』p.12-13</ref>。この優位は相対的なものであるから、際限がなく、これを求めることはすなわち無限の欲望である。しかし自然世界の資源は有限であるため、無限の欲望は満たされることがない。人は、それを理性により予見しているから、限られた資源を未来の自己保存のためにつねに争うことになる。またこの争いに実力での決着はつかない。なぜならホッブズにおいては個人の実力差は他人を服従させることができるほど決定的ではないからである。これがホッブズのいう「'''万人は万人に対して狼'''」、「'''[[万人の万人に対する闘争]]'''」である。
 
ホッブズにおいて自己保存のために暴力を用いるなど積極的手段に出ることは、'''自然権'''として善悪以前に肯定される。ところで自己保存の本能が忌避するのは死、とりわけ'''他人の暴力による死'''である。この他人の暴力は、他人の自然権に由来するものであるから、ここに自然権の矛盾があきらかになる。そのため理性の予見は、各自の自然権を制限せよという'''自然法'''を導く。自然法に従って人びとは、各自の自然権をただ一人の主権者に委ねることを'''契約'''する。だが、この契約は、自己保存の放棄でもその手段としての暴力の放棄でもない。自然権を委ねるとは、自然権の判断すなわち理性を委ねることである。ホッブズにおいて主権は、第一義的に'''国家理性'''なのである。また以上のことからあきらかなように、'''自然状態では自然法は貫徹されていない'''と考えられている。