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[[ファイル:André de Lohéac.jpg|thumb|right|アンドレ・ド・ラヴァル]]
'''アンドレ・ド・ラヴァル=モンモランシー'''('''André de Laval-Montmorency''', [[1408年]] - [[14851486]][[12月29日]])は、[[百年戦争]]期の[[フランス王国|フランス]]の貴族・軍人。[[フランス元帥]]、モンジャン、ロエアック、レの領主。[[ギー13世・ド・ラヴァル]]とアンヌ・ド・ラヴァルの息子で、兄弟に[[ギー14世・ド・ラヴァル]]がいる。母方の祖母は[[ベルトラン・デュ・ゲクラン]]と結婚していたジャンヌ・ド・ラヴァル。
 
== 略歴 ==
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また、かつての戦友ジルの目に余る浪費を心配し、彼の弟ルネを始め一族と共に領地分配の協議を行い、1435年にシャルル7世の命令でジルを禁治産者に指定させて領地の散逸を阻止しようとした。しかし、ジルの所領を狙う[[ブルターニュ公国|ブルターニュ]][[ブルターニュ君主一覧|公]][[ジャン5世 (ブルターニュ公)|ジャン5世]](リッシュモンの兄)がジルと領地売買しようと図ったため紛争が起こり、1437年にはジルとジャン5世が売買を進めていたことに業を煮やし、[[アンジュー]][[アンジューの領主一覧|公]][[ルネ・ダンジュー]]に要請して武力行使に踏み切り、ジルの所領を占拠して彼やジャン5世と一触即発の状態になった。
 
[[1438年]]にリッシュモンがそれぞれの調停に乗り出し一旦紛争は収まるが、1440年にジルの犯罪が明るみに出て処刑された後、[[1451年]]にジルの娘マリー・ド・レと結婚し、レの領主権を得る。しかしジルの他の所領は一族との係争で渡らず、[[1457年]]に死んだマリーとの間に子供は無く、結局ジルの所領は散逸、一部はジャン5世・リッシュモン兄弟に渡った。ジルの所領紛争が一段落した後はイングランド軍討伐を続行、[[1449年]]にリッシュモンの下でノルマンディー征服活動に従事、翌[[1450年]]もリッシュモン配下の部将として[[フォルミニーの戦い]]でイングランド軍を打ち破った。[[1453年]]にシャルル7世の命令で[[ギュイエンヌ]]へ遠征、ギュイエンヌ奪回を企てるシュルーズベリー伯率いるイングランド軍を[[カスティヨンの戦い]]で撃破しシュルーズベリーを討ち取り、百年戦争をフランスの勝利で終結させた<ref>エチュヴェリー、P234、P245 - P246、P271、P275 - P284、P292 - P293、清水、P177、P176 - P180、P182 - P186、P252 - P253、P288 - P290。</ref>
 
ジルの所領紛争が一段落した後はイングランド軍討伐を続行、[[1449年]]にリッシュモンの下でノルマンディー征服活動に従事、翌[[1450年]]もリッシュモン配下の部将として[[フォルミニーの戦い]]でイングランド軍を打ち破った。[[1453年]]にシャルル7世の命令で[[ギュイエンヌ]]へ遠征、ギュイエンヌ奪回を企てるシュルーズベリー伯率いるイングランド軍を[[カスティヨンの戦い]]で撃破しシュルーズベリー伯を討ち取り、百年戦争をフランスの勝利で終結させた<ref>エチュヴェリー、P234、P245 - P246、P271、P275 - P284、P292 - P293、清水、P177、P176 - P180、P182 - P186、P252 - P253、P288 - P290。</ref>。
[[1456年]]に王太子ルイが再度反乱を起こした時もシャルル7世に忠実に仕え、後にルイ11世が即位した際に元帥職を解雇された。しかし[[公益同盟]]戦争の後に職を回復し、[[パリ]]の政府の上級代理人および[[ピカルディ]]の知事職を与えられた。1485年に死去した。
 
[[1456年]]に王太子ルイが再度反乱を起こした時もシャルル7世に忠実に仕え、後にルイ11世が即位した際に元帥職を解雇された。しかし[[公益同盟]]戦争の後に職を回復し、[[パリ]]の政府の上級代理人および[[ピカルディ]]の知事職を与えられた。14851486年に死去した。
 
== 脚注 ==
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{{DEFAULTSORT:あんとれ らうある}}
[[Category:百年戦争の人物]]
[[Category:フランスの元帥]]
[[Category:ジャンヌ・ダルク]]
[[Category:モンモランシー家|あんとれ]]
[[Category:1408年生]]
[[Category:14851486年没]]