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歴史についての誤記訂正
→‎日本: 1623年儀間真常が部下を福州に派遣して」は戦国時代ではなく江戸時代
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[[平安時代]]後期には[[本草和名]]に見られるようにある程度製糖の知識も普及し、お菓子や[[贈り物|贈答品]]の一種として扱われるようにもなっていた。[[室町時代]]には幾つもの文献に砂糖羊羹、砂糖饅頭、砂糖飴、砂糖餅といった砂糖を使った和菓子が見られるようになってくる。名に「砂糖」と付くことからも、[[調味料]]としての砂糖は当時としては珍しい物だということがわかる<ref>{{Cite book|和書|author=鈴木晋一 |title=たべもの噺 |publisher=平凡社 |date=1986 |pages=159-162 |isbn=4582828132 }}</ref>。
 
やがて[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に[[南蛮貿易]]が開始されると宣教師たちによってさまざまな砂糖菓子がもちこまれ、さらにアジアから砂糖の輸入がさかんになり、徐々に砂糖の消費量は増大していく。このころ、[[琉球王国]]では[[1623年]]に[[儀間真常]]が部下を[[明]]の[[福州]]に派遣してサトウキビの栽培と黒糖の生産法を学ばせた。帰国した部下から得た知識を元に砂糖生産を奨励し、やがて琉球の特産品となっていった
 
江戸時代初期、[[薩摩藩]]支配下の[[琉球王国]]では[[1623年]]に[[儀間真常]]が部下を[[明]]の[[福州]]に派遣してサトウキビの栽培と黒糖の生産法を学ばせた。帰国した部下から得た知識を元に砂糖生産を奨励し、やがて琉球の特産品となった。
江戸時代にはいると、海外からの主要な輸入品のひとつに砂糖が上げられるようになり、[[オランダ]]や中国の貿易船が[[バラスト]]代わりの底荷として大量の砂糖を[[出島]]に持ち込んだ。このころ日本からは大量の[[金]]・[[銀]]が産出されており、その経済力をバックに砂糖は高値で輸入され、大量の砂糖供給は砂糖を使った[[和菓子]]の発達をもたらした。しかし17世紀後半には金銀は枯渇し、金銀流出の原因のひとつとなっていた砂糖輸入を減らすために[[江戸時代]]の[[征夷大将軍|将軍]][[徳川吉宗]]が[[琉球]]からサトウキビをとりよせて[[江戸城]]内で栽培させ、サトウキビの栽培を奨励して砂糖の国産化をもくろんだ。また、殖産興業を目指す各藩も価格の高い砂糖に着目し、自領内で栽培を奨励した。とくに[[高松藩]]主[[松平頼恭]]がサトウキビ栽培を奨励し、天保期には国産白砂糖のシェア6割を占めるまでになった。また、高松藩はこのころ[[和三盆]]の開発に成功し、高級砂糖として現在でも製造されている。こうした動きによって[[19世紀]]にはいると砂糖のかなりは日本国内でまかなえるようになった。[[天保]]元年から3年([[1830年]]から[[1832年]])には、[[大坂]]での取引量は輸入糖430万斤と国産糖2320万斤、あわせて2750万斤(1万6500トン)となり、さらに幕末の慶応元年([[1865年]])にはその2倍となっていた<ref>{{Cite book|和書|title=ヴィジュアル日本生活史 江戸の料理と食生活 |page=103 |author=[[原田信男]]編著 |publisher=小学館 |year=2004=06-20 |edition=第1版第1刷 |isbn=4096261300 }}</ref>。一方、このころ大阪の[[儒者]]である[[中井履軒]]は著書「老婆心」の中で砂糖の害を述べ、砂糖亡国論を唱えた<ref>{{Cite book|和書|title=飲食事典 |author=本山荻舟 |publisher=平凡社 |page=241 |date=1956-12-25 |ncid=BN01765836 |isbn=458210701X}}</ref>。また幕府も[[文政]]元年(1818年)にサトウキビの作付け制限を布告したが、実効は上がらず砂糖生産は増え続けた。江戸時代、国内の砂糖の流通は[[砂糖問屋]]が行っていたが、幕府崩壊とともに独占体制が崩れ、自由な流通が行われることとなり、[[大日本製糖]]など独占的な企業体も現われた。
 
江戸時代にはいると、海外からの主要な輸入品のひとつに砂糖が上げられるようになり、[[オランダ]]や中国の貿易船が[[バラスト]]代わりの底荷として大量の砂糖を[[出島]]に持ち込んだ。このころ日本からは大量の[[金]]・[[銀]]が産出されており、その経済力をバックに砂糖は高値で輸入され、大量の砂糖供給は砂糖を使った[[和菓子]]の発達をもたらした。しかし17世紀後半には金銀は枯渇し、金銀流出の原因のひとつとなっていた砂糖輸入を減らすために[[江戸時代]]の[[征夷大将軍|将軍]][[徳川吉宗]]が[[琉球]]からサトウキビをとりよせて[[江戸城]]内で栽培させ、サトウキビの栽培を奨励して砂糖の国産化をもくろんだ。また、殖産興業を目指す各藩も価格の高い砂糖に着目し、自領内で栽培を奨励した。とくに[[高松藩]]主[[松平頼恭]]がサトウキビ栽培を奨励し、天保期には国産白砂糖のシェア6割を占めるまでになった。また、高松藩はこのころ[[和三盆]]の開発に成功し、高級砂糖として現在でも製造されている。こうした動きによって[[19世紀]]にはいると砂糖のかなりは日本国内でまかなえるようになった。[[天保]]元年から3年([[1830年]]から[[1832年]])には、[[大坂]]での取引量は輸入糖430万斤と国産糖2320万斤、あわせて2750万斤(1万6500トン)となり、さらに幕末の慶応元年([[1865年]])にはその2倍となっていた<ref>{{Cite book|和書|title=ヴィジュアル日本生活史 江戸の料理と食生活 |page=103 |author=[[原田信男]]編著 |publisher=小学館 |year=2004=06-20 |edition=第1版第1刷 |isbn=4096261300 }}</ref>。一方、このころ大阪の[[儒者]]である[[中井履軒]]は著書「老婆心」の中で砂糖の害を述べ、砂糖亡国論を唱えた<ref>{{Cite book|和書|title=飲食事典 |author=本山荻舟 |publisher=平凡社 |page=241 |date=1956-12-25 |ncid=BN01765836 |isbn=458210701X}}</ref>。また幕府も[[文政]]元年(1818年)にサトウキビの作付け制限を布告したが、実効は上がらず砂糖生産は増え続けた。江戸時代、国内の砂糖の流通は[[砂糖問屋]]が行っていたが、幕府崩壊とともに独占体制が崩れ、自由な流通が行われることとなり、[[大日本製糖]]など独占的な企業体も現われた。
 
[[明治時代]]中期、[[日清戦争]]の結果として[[台湾]]が日本領となると、[[台湾総督府]]は糖業を中心とした開発を行い、これにともなって日本には大量の砂糖が供給されることとなった。これによって沖縄を除く日本本土ではサトウキビの生産が衰退したが、台湾での増産によって生産量は増大を続け、[[昭和]]に入ると砂糖の自給をほぼ達成した。いっぽう、北海道においては明治初期にテンサイの生産が試みられたが一度失敗し、昭和期に入ってやっと商業ベースに乗るようになった。この砂糖生産の拡大と生活水準の向上によって砂糖の消費量も増大し、[[1939年]]には一人当たり砂糖消費量が16.28kgと戦前の最高値に達し、[[2010年]]の消費量(16.4kg)とほぼ変わらないところまで消費が伸びていた{{Sfn|橋本仁・高田明和|2006|p=6}}。しかしその後、第二次世界大戦の戦況の悪化にともない砂糖の消費量は激減し、1945年の敗戦によって砂糖生産の中心地であった台湾を失ったことで砂糖の生産流通は一時大打撃を受け、[[1946年]]の一人あたり消費量は0.20kgまで落ち込んだ。その後[[1952年]]に砂糖の配給が終了して生産が復活し、日本の経済復興とともに再び潤沢に砂糖が供給されるようになった。