「チッソ」の版間の差分

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* [[1931年]]、宮崎県延岡市に延岡アンモニア絹絲株式会社(現・[[旭化成]])が設立される(日本窒素肥料からの分離・独立)。水俣工場を[[昭和天皇]]が視察(11月16日)<ref>チッソ水俣工場内臨幸記念碑</ref> 。水俣工場の橋本彦七・製造課長がアセトアルデヒド製造の特許を取得。通算7件の特許のうち1件は「高価有毒な水銀を系外に排出せざる」という内容であった<!--聞書水俣民衆史(4) p304-->。
* [[1932年]]、水俣工場でアセトアルデヒドの製造開始(この製造に水銀触媒を使用した事が、メチル水銀漏出による水俣病へとつながる)。この年酢酸工場の臨時工の採用試験を受けた者は橋本彦七から「いつ爆発するかもしれないがそれでもいいか」と質問され就職難の折、「はい、いつ死んでもよろしゅうございます」と答えてやっと採用されたという<ref name="gendainome _a">河野信子「チッソ労組」現代の眼1970年12月号pp170-179</ref>。
* [[1936年]]、国際的な合成窒素カルテルに参加([[チリ#議会共和制から百日社会主義共和国まで]])。
* [[1941年]]、水俣工場で日本最初の塩化ビニール製造開始。工程には塩化第二水銀・昇汞が含まれた。興南工場でアセトアルデヒドの製造開始。廃水溝の水銀は回収せず廃液は城川江に流していた<!--聞書水俣民衆史(5) p112-114-->。
* [[1942年]]、水俣工場では日本人工員が兵役にとられ、炭鉱などから移ってきた朝鮮人の自由労務者の雇用を開始。原則として日本人と同じ仕事・待遇であった。また、地元の生徒の勤労動員も行われ、沖縄から学徒疎開で来た者も動員された<!--聞書水俣民衆史(4) p279-301-->。確認できる最初の水俣病患者が発病(1972年、熊本第2次水俣病研究班の調査で判明)<!--沈黙と爆発p43-->。