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歴史事実と異なる記載に驚く。とりあえず要出典をつける。
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[[熊本県]][[玉名市]]に生まれる。[[1955年]][[九州大学]]経済学部卒業、[[1960年]]同大学院博士課程修了。九州大学経済学部助手、[[法政大学]]第二教養部助教授、教授を経て、社会学部教授となる。
 
学生時代より向坂逸郎に師事し、1960年代前半まず[[構造改革]]論批判などで頭角をあらわす<ref>『構造改革論批判』(1966年(昭和41年)11月、労働大学刊)第1章9ページ〜第2章110ページ</ref>。福田の論文にはマルクスやレーニンの著作からの豊富な引用が行われているが、{{要出典|それは[[社会主義協会]]の理論が向坂の指導でマルクス・レーニン主義へ転化していくのにたいしマルクス・レーニン主義の歴史的・理論的限界を明らかにし、この理論の援用にたいして慎重であるべきことを求めたものであった。|date=2016年5月}}全盛期社会主義協会の代表的理論家として活躍し、社会主義協会事務局次長、機関誌『社会主義』の編集長を務める。1970年代後半より次第に[[ユーロコミュニズム]]に傾く。[[1982年]]11月[[鎌倉孝夫]]とともに『現代資本主義と社会主義像』([[河出書房新社]])を出版し、社会主義協会のマルクス・レーニン主義を強く批判したため、社会主義協会内部で個人攻撃も含めた激しい批判を受け、まもなく社会主義協会を脱退する。この福田批判により、福田の主張に必ずしも賛成ではなかった者も含めて多くの学者研究者が社会主義協会を離れ、社会主義協会弱体化の一因となった。
 
福田はその後1980年代から1990年代前半にかけ、[[日本社会党]]社会主義理論センターの重要な一員として日本社会党の西欧[[社会民主主義]]化を積極的に主張し、活発な論陣を張った。社会主義理論センターの学者グループには、[[大内秀明]]、[[田中慎一郎]]、[[高木郁朗]]、[[新田俊三]]ら社会主義協会離脱者が多く、福田はその代表格であった。日本社会党が消滅した1990年代後半以降は、社会学部紀要にイギリス労働党の理論([[アンソニー・ギデンズ|ギデンズ]]や[[トニー・ブレア|ブレア]]の「[[第三の道]]」など)に関する研究論文を発表している。しかし現実の政治運動などに発言することはほとんどなくなった。