「榎本健一」の版間の差分

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浅草時代から[[日本コロムビア|コロムビア]]の廉価盤「リーガル」レーベルや、[[日本ビクター|ビクター]]に『[[モンパパ]]』などをレコーディングしていたが、[[1936年]](昭和11年)に[[ポリドール・レコード|ポリドール]]専属の歌手となり、多くの曲を吹き込んでいる。当時、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で流行し始めた[[ジャズ]]も取り入れ、『[[洒落男]]』『[[私の青空 (歌)|私の青空]]』『[[月光価千金]]』『[[エノケンのダイナ (曲)]]』など既に他歌手の歌唱でヒットしていた和製ジャズの流行歌を、自分のキャラクターにあわせカバー、『[[リリ・オム]]』『[[南京豆売り]]』『[[アロハ・オエ]]』など、外国曲を原詞とは全く関係の無いストーリーに沿った歌詞で歌いヒットした。同じポリドールの人気歌手[[東海林太郎]]、[[上原敏]]と一緒のスナップ写真が多く残されている。エノケンが司会を務めた[[1941年]](昭和16年)発売の流行歌謡集「歌は戦線へ」はポリドール専属歌手を総動員し、慰問用として数多くプレスされた。
 
[[ミュージカル]]風に話が進行するエノケン映画は、[[日中戦争]]が激化し、[[ヨーロッパ]]において[[第二次世界大戦]]が勃発した翌年の[[1940年]](昭和15年)まで、ほぼ年に3~4本は制作された。『エノケンの千万長者』『エノケンの頑張り戦術』といった現代劇、『[[エノケンの近藤勇]]』『エノケンのどんぐり頓兵衛』『エノケンのちゃっきり金太』『エノケンの猿飛佐助』『[[エノケンの法界坊]]』『エノケンの弥次喜多』『エノケンの鞍馬天狗』『エノケンの森の石松』『エノケンのざんぎり金太』といった[[時代劇]]はいずれもヒットとなった。ほとんどエノケン一座でキャスティングされ、人気を博した。その後、人気俳優らと共演した映画『[[エノケンの孫悟空]]』が[[1941年]](昭和16年)に封切られたが、中国ロケを敢行し、当時流行していたオペラ{{要出典|date=2009年5月|title=当時っていつでしょうか?}}を採り入れた内容で、大ヒットとなった。
 
しかし、[[同年末の対英米開戦などの第二次世界大戦]]の激化によってコメディ映画の制作数は激減しその他の映画においても国策に賛同する役柄を演じさせられることが多くなり、そのキャリアと人気は徐々に衰退していっ停滞を余儀なくされた。
 
=== 喜劇界の重鎮 ===