「春の祭典」の版間の差分

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ところが、同年9月末に[[ローザンヌ]]のストラヴィンスキーを訪問したディアギレフは、そこで聞いた作曲途中の『[[ペトルーシュカ]]』を気に入り、これを発展させてバレエにすることにしたため<ref>バックル、前掲書、上巻206頁</ref>、『春の祭典』は一時棚上げとなった。
 
[[1911年]]6月に『ペトルーシュカ』が上演された後、『春の祭典』の創作が本格的に開始された。ロシアに帰国していたストラヴィンスキーはレーリヒを訪ねて具体的な筋書きを決定し<ref>『自伝』51-52頁</ref>、レーリヒはロシア美術のパトロンであったテーニシェヴァ公爵夫人のコレクションから古い衣裳を借り受けてデザインの参考にした<ref>バックル、前掲書、上巻247頁</ref>。同じ頃に「春のきざし」から始められた作曲は<ref>小倉重夫『ディアギレフ ロシア・バレエ団の足跡』[[音楽之友社]]、1978年、198頁</ref>、同年冬、[[スイス]]のクレーランスで集中的に作曲が進められた結果、[[1912年]]1月にはオーケストレーションを除き曲が完成した。ストラヴィンスキーはこの年の春に演目として上演されることを希望したが、ディアギレフはこれを翌年に延期するとともに、大規模な管弦楽のための作品にするよう要望した。その後、[[モント]]でオーケストレーションが進められ、[[1913年]]に完成した。
 
== 初演までの経緯 ==