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| 母親 = ブランシュ・オブ・ランカスター
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'''ヘンリー4世'''('''Henry IV''', [[1367年]][[4月3日]] - [[1413年]][[3月20日]])は、[[ランカスター朝]]最初の[[イングランド王国|イングランド]][[イングランド君主一覧|国王]](在位:[[1399年]] - 1413年)。[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]の第3子[[ジョン・オブ・ゴーント]]と初代[[ランカスター公]]ヘンリー・オブ・グロスモントの次女ブランシュの長男。[[リンカンシャー]]のボリングブロク城で生まれたので、ヘンリー・ボリングブロク(Henry Bolingbroke)とも言われる。即位前はヘフォード、[[ダービー伯爵|ダービー伯]]。
 
== 生涯 ==
[[1380年]]、ヘリフォード伯ハンフリー・ド・ブーンの次女[[メアリー・ド・ブーン|メアリー]]と結婚。[[1390年]]から[[1392年]]にかけて[[ドイツ騎士団]]の[[リトアニア大公国|リトアニア]]遠征に加わった。
[[1380年]]、第7代{{仮リンク|ヘレフォード伯|en|Earl of Hereford}}{{仮リンク|ハンフリー・ド・ブーン (第7代ヘレフォード伯)|label=ハンフリー・ド・ブーン|en|Humphrey de Bohun, 7th Earl of Hereford}}の次女[[メアリー・ド・ブーン|メアリー]]と結婚。メアリーの姉エレノアはヘンリーの叔父の1人・[[グロスター公]][[トマス・オブ・ウッドストック]]に嫁いでいるため、2人は親族と同時に相婿の関係になった。メアリーは[[1394年]]に死去したため、王妃にはなっていない。
 
従兄の[[リチャード2世 (イングランド王)|リチャード2世]]とは対立しあう関係で、グロスター公らと共に{{仮リンク|訴追派貴族|en|Lords Appellant}}のメンバーに加わり、[[1388年]]の{{仮リンク|無慈悲議会|en|Merciless Parliament}}で国王の側近追放に1枚噛んでいる。直後に父が訴追派貴族とリチャード2世双方を仲裁したため事はそれ以上発展せず、ヘンリーは[[1390年]]から[[1392年]]にかけて[[ドイツ騎士団]]の[[リトアニア大公国|リトアニア]]遠征に加わっている<ref>森、P164 - P165、P184 - P186、川北、P111 - P112、ロイル、P56 - P60、君塚、P151 - P152。</ref>。
[[1398年]]、従兄の[[リチャード2世 (イングランド王)|リチャード2世]]に[[トマス・モウブレー (初代ノーフォーク公)|トマス・モウブレー]]との諍いを咎められ、[[パリ]]に追放されて相続権を奪われ、翌年に父が死んで残ったランカスター公領も没収された。1399年[[7月4日]]にイングランドに上陸。8月には[[アイルランド]]遠征から帰還途中のリチャード2世を[[ウェールズ]]との国境で破り、リチャードを逮捕した。[[9月30日]]、議会はリチャード2世の廃位とヘンリーの王位継承を議決、[[ランカスター朝]]を開いた。
 
[[1397年]]、リチャード2世が復讐を企てグロスター公ら訴追派貴族を追放・処刑した際、ヘンリーは例外としてヘレフォード公に叙されたが、翌[[1398年]]、リチャード2世に[[ノーフォーク公]][[トマス・モウブレー (初代ノーフォーク公)|トマス・モウブレー]]との諍いを咎められ一転して追放処分を受けた。[[フランス王国|フランス]]・[[パリ]]に追放されたヘンリーは相続権を奪われ、翌1399年2月に父が死んで残ったランカスター公領も没収された。
治世の初期、[[ウェールズ]]での[[オワイン・グリンドゥール]](オウェイン・グレンダワー)の{{仮リンク|グリンドゥールの反乱|en|Glyndŵr Rising|label=反乱}}([[1400年]] - [[1415年]])や、{{仮リンク|アーチボルド・ダグラス (第4代ダグラス伯)|en|Archibald Douglas, 4th Earl of Douglas|label=ダグラス伯アーチボルド}}との{{仮リンク|ホームドンの丘の戦い|en|Battle of Humbleton Hill}}([[1402年]])、[[ノーサンバランド伯]][[ヘンリー・パーシー (初代ノーサンバランド伯)|ヘンリー・パーシー]]・[[ヘンリー・パーシー (ホットスパー)|ホットスパー]]父子の{{仮リンク|シュルーズベリーの戦い|en|Battle of Shrewsbury|label=反乱}}などに悩まされたが、長男のハル([[ヘンリー5世 (イングランド王)|ヘンリー5世]])らの働きもあって晩年の治世は安定した。
 
同年5月にリチャード2世が[[アイルランド]]へ遠征してイングランドを空けた隙を見て[[7月4日]]にイングランドに上陸。[[ノーサンバランド伯]][[ヘンリー・パーシー (初代ノーサンバランド伯)|ヘンリー・パーシー]]・[[ヘンリー・パーシー (ホットスパー)|ホットスパー]]父子とウェストモーランド伯[[ラルフ・ネヴィル (初代ウェストモーランド伯)|ラルフ・ネヴィル]]ら北部貴族の協力を得て8月には遠征から帰還途中のリチャード2世を[[ウェールズ]]との国境で破り、リチャード2世を逮捕した。そして[[9月30日]]、議会はリチャード2世の廃位とヘンリーの王位継承を議決、ヘンリーは国王ヘンリー4世に即位してランカスター朝を開いた(リチャード2世は翌[[1400年]]に獄死)<ref>森、P166 - P169、エチュヴェリー、P61、川北、P112 - P113、城戸、P64、ロイル、P74 - P82、君塚、P152 - P156。</ref>。
[[1403年]]、[[ブルターニュ公]][[ジャン4世 (ブルターニュ公)|ジャン4世]]の未亡人ジャンヌ・ド・ナヴァール([[ジョーン・オブ・ナヴァール]])と再婚する。子供はいない。
 
治世の初期、[[ウェールズ]]での[[オワイン・グリンドゥール]](オウェイン・グレンダワー)の{{仮リンク|グリンドゥールの反乱|en|Glyndŵr Rising|label=反乱}}([[1400(1400]] - [[1415年]])や、{{仮リンク|アーチボルド・ダグラス (第4代ダグラス伯)|en|Archibald Douglas, 4th Earl of Douglas|label=ダグラス伯アーチボルド}}との{{仮リンク|ホームドンの丘の戦い|en|Battle of Humbleton Hill}}([[1402年]])、[[ノーサンバランド伯]][[ヘンリー・パーシー (初代ノーサンバランド伯)|ヘンリー・パーシー]]・[[ヘンリー・パーシー (ホットスパー)|ホットスパー]]父子の{{仮リンク|シュルーズベリーの戦い|en|Battle of Shrewsbury|label=反乱}}などに悩まされたが、長男のヘンリー[[プリンス・オブ・ウェーズ|王太子]]後の[[ヘンリー5世 (イングランド王)|ヘンリー5世]])らの働きもあって晩年の治世は安定した。しかし、[[百年戦争]]で休戦中のフランスに対する外交で父子は対立、内乱で混乱しているフランスへの軍事介入に慎重なヘンリー4世に対し、王太子は北フランスへの積極的進出を唱え、[[1412年]]に一時父子の仲は悪化したが程無く和解している<ref>森、P186 - P190、川北、P113 - P116、城戸、P102 - P110、ロイル、P87 - P111、君塚、P156 - P159。</ref>
[[1406年]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]王[[ロバート3世 (スコットランド王)|ロバート3世]]の嗣子ジェームズ(後の[[ジェームズ1世 (スコットランド王)|ジェームズ1世]])を捕らえ、人質とした。
 
ただ、ヘンリー4世もフランス進出に意欲的な時期があった。[[1403年]]、自身の再婚を切っ掛けにフランス北西部に当たる[[ブルターニュ公国|ブルターニュ]]への介入を狙い、[[ブルターニュ君主一覧|ブルターニュ公]][[ジャン4世 (ブルターニュ公)|ジャン4世]]の未亡人ジャンヌ・ド・ナヴァール([[ジョーン・オブ・ナヴァール]])と再婚する。しかし、ヘンリー4世の意図を見抜いたブルターニュ貴族[[オリヴィエ・ド・クリッソン]]の計らいでジャンヌと先夫との間の息子達([[ジャン5世 (ブルターニュ公)|ジャン5世]]、[[アルテュール3世 (ブルターニュ公)|アルテュール]]など)はイングランドへ連れて行かれないようフランス王室へ預けられ、ヘンリー4世の目論見は頓挫した。ジャンヌとヘンリー4世との間に子供はいない<ref>森、P198、エチュヴェリー、P61 - P62、ロイル、P100。</ref>。
[[1407年]]、父の3度目の夫人[[キャサリン・スウィンフォード]]との間に生まれた[[ジョン・ボーフォート (初代サマセット伯)|ジョン・ボーフォート]]ら4人の異母弟妹たちが将来の王位継承の不安材料となるため、「キャサリンの子女の嫡出は認めるが、王位継承の権利は排除する」と改めた。
 
他の事跡として、[[1406年]]、[[スコットランド王国|スコットランド]][[スコットランド君主一覧|王]][[ロバート3世 (スコットランド王)|ロバート3世]]の嗣子ジェームズ(後の[[ジェームズ1世 (スコットランド王)|ジェームズ1世]])を捕らえ、人質とした。この時期のスコットランドはフランスとの同盟で油断出来なかったが、内乱で分裂していた上、ジェームズの安全を考えると迂闊な行動を取れずイングランドの脅威では無かった<ref>川北、P113 - P114、ロイル、P107。</ref>。また[[1407年]]、父の3度目の夫人[[キャサリン・スウィンフォード]]との間に生まれた4人の異母弟妹([[ジョン・ボーフォート (初代サマセット伯)|ジョン]]、[[ヘンリー・ボーフォート (枢機卿)|ヘンリー]]、[[トマス・ボーフォート (エクセター公)|トマス]]、[[ジョウン・ボーフォート (ウェストモーランド伯爵夫人)|ジョウン]])たちが将来の王位継承の不安材料となるため、「キャサリンの子女の嫡出は認めるが、王位継承の権利は排除する」と改めた<ref>森、P179、ロイル、P88。</ref>。
1413年3月20日、リトアニア遠征の時にかかった伝染性疾患のため、[[ウェストミンスター寺院|ウェストミンスター・アベイ]]で死去した。
 
1413年3月20日、リトアニア遠征の時にかかった伝染性疾患のため、[[ウェストミンスター寺院|ウェストミンスター・アベイ]]で死去した。最期の状況は、ヘンリー4世が寺院内の[[エドワード懺悔王]]の礼拝堂で祈っていた所、発作に襲われそのまま亡くなったとされ、そこに飾ってあったリチャード2世の肖像画に見つめられていたといわれる。遺言により[[カンタベリー大聖堂]]へ埋葬され、王太子がヘンリー5世として即位した<ref>森、P190 - P192、ロイル、P118 - P119、君塚、P159。</ref>。
 
== 子女 ==
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== 系図 ==
{{イングランド王室ランカスター朝}}
 
== 脚注 ==
<references />
 
== 参考文献 ==
* [[森護]]『英国王室史話』[[大修館書店]]、1986年。
* [[ジャン=ポール・エチュヴェリー]]著、[[大谷暢順]]訳『百年戦争とリッシュモン大元帥』[[河出書房新社]]、1991年。
* [[川北稔]]編『新版世界各国史11 イギリス史』[[山川出版社]]、1998年。
* [[城戸毅]]『百年戦争―<small>中世末期の英仏関係</small>―』[[刀水書房]]、2010年。
* [[トレヴァー・ロイル]]著、[[陶山昇平]]訳『薔薇戦争新史』[[彩流社]]、2014年。
* [[君塚直隆]]『物語 イギリスの歴史(上) <small>古代ブリテン島からエリザベス1世まで</small>』[[中央公論新社]]([[中公新書]])、2015年。
 
== 関連項目 ==
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{{DEFAULTSORT:へんり4}}
[[Category:イングランドの君主]]
[[Category:百年戦争の人物]]
[[Category:アキテーヌ公]]
[[Category:ランカスター公]]