「大石神影流」の版間の差分

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樋口真吉は土佐藩で[[無外流|無外流剣術]]と[[高木流|高木流槍術]]を修行していたが、独自に[[竹刀]]や[[防具]]の工夫や技の改良を行い、他流試合を行ったので破門された。[[1837年]]([[天保]]8年)、樋口は廻国修行に出て、柳河の大石道場に入門した。樋口真吉は剣術だけではなく槍術も大石進に学び、入門後28日で皆伝を授けられた。<ref>森本邦生はこの皆伝について「真吉が短期間で全てを習得したのではなく、大石進が樋口真吉の廻国修行の事情をくんだと考えるのが妥当であろう」としている。(「樋口真吉第一回廻国修行日記について -大石神影流の土佐への伝播-」)</ref>この後も樋口真吉は何度も柳河へ赴き大石進のもとで修行した。樋口兄弟が皆伝を得て土佐に帰ったことにより、大石神影流が土佐藩に伝えられた。また、大石進が[[高知市|高知]]に招かれ、大石神影流が土佐藩の[[藩校]]で指導されるようになった。
 
流儀の特徴としては、剣尖を敵の喉に向け、左肘を曲げて水平に構えるという、まるで[[槍術]]の構えを思わせる「附」(つけ)という構えから、左片手突きを繰り出すのが得意な流派である。これは大石種次が大島流槍術の指南でもあったことから、槍術から発案したものと思われる。大石進は5尺3寸の長竹刀を遣ったが、流儀の定寸は各自の胸の高さまで(これでも当時の基準では長い竹刀だが)である。[[二刀流|二刀]]の形や「鞘之内」と称する[[抜刀術|居合]]、[[小太刀術]]も含み、すべての剣技は型の応用変化であるとして、その数は8080ほどある。
 
大石種次の墓は恵日寺にある。第6代宗家は大石英一、第7代宗家は平成26年4月20日、大石馨に継承された。

== 脚注 ==
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