「安東氏」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
→南北朝と二家分立: 誤りの修正 |
|||
58行目:
対して、津軽に残った惣領家は'''下国家'''と称した。下国家は宗季以降5代にわたり続き、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]には南北両朝の間を巧みに立ち回り、本領の維持拡大に努め<ref name=nakasato>[[#nakasato|中里町 2004]]</ref>、[[室町時代]]初期にかけて勢力は繁栄の最盛期を迎えた<ref name=uchi57>[[#uchi|入間田 1999]],pp.57-58</ref>。[[齊藤利男]]は、[[14世紀]]末に夷島での反乱を鎮圧した下国家が、その功績により秋田湊一帯及び夷島日本海側の支配権を[[室町幕府]]から委ねられ、湊家を興したとしている<ref name=sakigake>{{Cite news | last = 千葉| first = 園子| title = 安東氏テーマにシンポ 成り立ち、足跡を解説 土崎港 弘前大教授ら講演| newspaper = [[秋田魁新報]]| page = 23| language = 日本語| date = 2014-11-18}}</ref>。応永30年([[1423年]])には[[足利義量]]の[[征夷大将軍|将軍]]就任を祝い[[安藤康季]]が馬20頭、鷲羽50羽分、[[銭貨|鵞眼]]20,000疋、[[ラッコ|海虎]]皮30枚、[[昆布]]500把を献上している<ref name=kaidou2627>[[#kaidou|齊藤 2010]],pp.26-27</ref>。また、康季は足利義量御内書上では'''安藤陸奥守'''として見えるが、[[若狭国]][[羽賀寺]]の再建に際しては'''奥州十三湊日之本将軍'''と称している。なお、[[安藤盛季|盛季]]以前の下国家の系譜は諸系図によりまちまちであり、一級史料に見える名と系図の名が一致しない等系図の信憑性に疑問が持たれているため、実態については、いまだ研究の途上にあるが、盛季以降の系譜については生没年等に諸説あるものの、ほぼ疑いのないものと考えられている<ref name=niino>[[#niino|新野 1989]],p.106</ref>。
しかし下国家は最盛期後間もなくの15世紀半ば頃、東の[[八戸市|八戸]]方面から勢力を伸ばしてきた[[南部氏]]に追われ夷島に逃れた後、いったん室町幕府の調停で復帰したものの再度夷島に撤退<ref name=uchi57/><ref group="注釈">但し
下国家と上国家は、それぞれ陸奥国北辺と出羽国北辺で蝦夷管領の役割を果たしていたとも推察されている<ref name=meizoku>[[#meizoku|遠藤 1989]]</ref>。更に、[[室町幕府]]の奥羽大名施策において、両安東氏を[[屋形|屋形号]]を称する家柄として秩序立てていたとする見解もある<ref name=kannihonkai117>[[#kannihonkai|遠藤 2002]],pp.117-118</ref>。この頃から「安藤」の表記を「安東」とする例が多くなるが理由は明らかでない<ref group="注釈">[[佐々木慶市]]は、二家分裂以前には基本的に「安東」と表記した例はないことから「安藤」が本来の表記で、下国家が本家筋の上国家に対抗して「安東」と表記して「東海将軍」の官職名をそこに含意したものであると論じている。([[#sasaki|佐々木慶市 1989]])</ref>。
|