「マーストリヒト条約」の版間の差分

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==批准==
批准過程においてマーストリヒト条約は3か国で困難に直面した。まず、[[デンマーク]]は1992年[[6月2日]]に[[国民投票]]を実施し、およそ50,000票差で批准を拒否する結果となった。この結果の影響は[[フランス]]における国民投票にも波及し、51.05% が賛成票を投じ、僅差で反対票を上回り批准にこぎつけた。その後デンマークについて、4つの例外条項をもうけた[[エディンバラ議定書]]を付すことで、1993年[[5月18日]]に批准することができ法案は可決された。
 
このほか[[イギリス]]では[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]において、マーストリヒト条約の社会政策条項に関するオプト・アウト(免除規定)野党・[[労働党 (イギリス)|労働党]]や[[自由民主党 (イギリス)|自由民主党]]が反対また与党・[[保守党 (イギリス)|保守党]]内でもの一部の議員はマーストリヒト条約自体への加盟懐疑的な議員が反対したが、1993年5月30日回るなどして批准が否法案は可決された。保守党内の庶民院の造反議員の数は半数を超えるものであり、これによって[[ジョン・メージャー]]政権は議会の信任を失った。
 
マーストリヒト条約の批准と欧州連合への加盟に一部の国で反対論はあったが、マーストリヒト条約は1993年11月に発効し、欧州連合が創設された。
当時の英国首相[[ジョン・メージャー]]はマーストリヒト条約の社会政策条項に反対していた。メージャーが[[市場原理主義]]を支持しており政府による介入・規制を嫌っていたからである。メージャーは、社会条項が企業のコストを上げるとし、英国は社会政策条項からオプトアウトするべきと考えていた。反EU派の保守党議員も社会政策条項を嫌っていたがそれ以上にマーストリヒト条約を嫌っていた。それら反EUの保守党議員らは、もし彼らが社会政策条項をメージャーに飲ませればメージャーがマーストリヒト条約を拒絶もしくはその批准を遅らせるだろうと考えていた<ref>[http://www.independent.co.uk/news/uk/politics/treaty-tightrope-the-social-chapter-what-it-is-and-why-conservatives-hate-it-1486124.html Treaty Tightrope: The Social Chapter: what it is and why Conservatives hate it] R. Williams, The Independent, 20 Jul 1993</ref>。
 
==関連項目==