「ベルナール・フォントネル」の版間の差分

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「邦訳」を「日本語訳」に -- Wikipedia:日本中心にならないように
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あと1月で100歳の誕生日を迎えようとする1757年1月、パリで死亡。
 
== 初期の著作 ==
まず[[詩|詩作]]を試み、[[アカデミー・フランセーズ]]の懸賞に何度となく応募するがすべて落選。たびたびパリを訪れ、[[アベ・ド・サン=ピエール]]、[[アベ・ヴェルトー]]、数学者の[[ピエール・ヴァリニョン]]らの知遇を得る。コルネイユらの後押しを受けて劇作家になることを夢みるが、[[1680年]]に初演された自作の悲劇『アスパール』が酷評される。[[1688年]]の『牧歌詩集』も不評。[[1689年]]初演のオペラ『[[テティス]]と[[ペーレウス]]』はヴォルテールらの絶賛を浴びたが、興行的には同じく失敗に終わり、劇作家としては芽が出なかった。
 
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[[1686年]]に現れた『世界の複数性についての対話』は、フォントネルの名声をますます確かなものにした。この本は架空の侯爵夫人と「私」との対話という形式を借りて、[[宇宙]]とは何かについて詳細に述べたものである。「それは本当に大きい宇宙で、私はその中で自分を見失ってしまいますわ。もうどこにいるかも分からず、私なんてもう何ものでもないのですわ」。<!--英語版ではここまでが引用されているが、この本の全体の内容の要約としては不適切である。-->フォントネルは、コペルニクスの地動説に対して当時の人々が感じた不安を以上のように要約し、それが杞憂にすぎないことを主張している。「私は却ってゆったりした気分になりますよ。この天蓋に無限の広がりと深さが与えられ、それが数かぎりない渦動に分かれた今、私は自分が一層自由に呼吸できるように思います」([[赤木昭三]]訳)。フォントネルはその後長きにわたって王立科学アカデミーのリーダーになるが、このように小説という形式を借りて科学知識を提供したために、自然学に親しみのない人々でも当時の自然学の進歩を実感することができた。これによってフォントネルは[[ルネ・デカルト|デカルト]]の天文学理論を普及させようとした。フランスでは18世紀中頃にニュートン学説が普及するまで、デカルトのいわゆる「[[渦動説]]」が有力だったが、フォントネルのこの書物は渦動説の普及に大きく貢献した。
 
== 後年の著作 ==
[[Image:Fontenelle.jpg|thumb|200px|left|フォントネルの肖像]]
フォントネルは[[ルーアン]]に地所をもっていたが、[[1687年]]からパリに居住した。同年、『神託の歴史』を出版。神学者や哲学者たちのあいだで物議を醸した。この書物は2篇からなり、前半では神託が超自然的な霊から得られるものではないことが証明され、後半では[[イエス・キリスト|イエス]]の誕生後も神託が続いていることが証明される。こうした内容のせいでこの本は当時のカトリック教会から睨まれ、バルテュスというイエズス会士には長々しい反駁書を書かれている。しかしフォントネルは論争を嫌い、応酬しなかった。
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フォントネルは当時の知識人たちのあいだでは[[ヴォルテール]]と並ぶ卓越した地位を占めていた。しかしヴォルテールとは違って論争を避け、敵を作らなかった。批判的な思考を好む傾向と、貴族社会の中で愛嬌を振りまき世渡りをしていくこととの間でうまくバランスを取っていた。
 
== アカデミー・フランセーズ ==
[[1691年]]にアカデミー・フランセーズ会員に選出される。[[ジャン・ラシーヌ|ラシーヌ]]や[[ニコラ・ボアロー=デプレオー|ボワロー]]ら古代派の人々から反対されたため、5回目の選考だった。碑文アカデミーと科学アカデミーの両方に属し、科学アカデミーについては[[1697年]]から実に42年間にわたって終身書記の地位にあった。終身書記としてフォントネルは『科学アカデミーの変革の歴史』(パリ、3巻、1708-1717-1722年)という題名で議事録の編纂や検討を行う一方、物故会員の追悼演説も担当した。こうした演説は全部で69点に上るが、中でも有名なのはおそらく親戚のピエール・コルネイユに対するものだろう。他の著作としては『無限の幾何学要論』([[1727年]])など。
 
== 後年の評価 ==
フランス文学史上、フォントネルは2つのたいへん異なる時代を繋ぐ仲介の役割を果たしている。すなわち、[[ピエール・コルネイユ|コルネイユ]]、[[ジャン・ラシーヌ|ラシーヌ]]、[[ニコラ・ボアロー=デプレオー|ボワロー]]らの時代から、ヴォルテール、[[ジャン・ル・ロン・ダランベール|ダランベール]]、[[ドゥニ・ディドロ|ディドロ]]らの時代である。これはフォントネルが長命だったためばかりではなく、[[17世紀]]の才人たちとも[[18世紀]]の哲学者たちとも相通ずるところがあったからである。ただしどちらかといえば彼は後者の時代に近かった。
 
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フォントネルの著作集は数回編纂されている。最初の著作集は、ハーグで1728年から1729年にかけて編纂された3巻本であった。最も優れた版は、1790年にパリで編纂された8巻本の著作集である。『世界の複数性についての対話』などのいくつかの作品は何度も再版され、様々な言語に翻訳された。
 
==日本語訳書 ==
* [[赤木昭三]]訳『世界の複数性についての対話』工作舎, 1992年  ISBN 4-87502-208-5
* 白石嘉治訳「哲人共和国、またはアジャオ人物語」, 『啓蒙のユートピア』第1巻, 法政大学出版局, 1996年
* 赤木昭三訳「哲学者の国またはアジャオ人物語」, 『ユートピア旅行記叢書』第4巻, 岩波書店, 1998年
 
== 関連項目 ==
* [[フォントネル (小惑星)]]
* [[フォントネル (クレーター)]](いずれもフォントネルにちなんで命名された)
 
== 電子テクスト ==
* フランス国立図書館の電子テクスト・サイト[http://gallica.bnf.fr/ Gallica]
** Entretiens sur la pluralité des mondes
** Traité sur la nature de l'églogue
* Association des Bibliophiles Universelsのサイト[http://abu.cnam.fr/ ABU]
** Entretiens sur la pluralité des mondes
* ケベック大学社会科学古典電子図書館[http://classiques.uqac.ca/classiques/ Les classiques des sciences sociales]
** Histoire des oracles
** Traité de la liberté de l'âme
 
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