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=== 龍造寺隆信との確執 ===
鎮漣は義父の龍造寺隆信に幕下の礼をとり、その[[筑後国]]進攻に全面的に協力するが、やがて隆信と対立するようになった。隆信は天正9年([[1581年]])に2万の兵で[[柳川城]]を包囲するが、「柳川三年」という戯れ歌があるほどに難攻不落で知られた柳川城はなかなか落ちなかった。しかし長期の籠城で城兵も疲弊し、城内の兵糧も尽きたので、鎮漣は伯父の[[田尻鑑種]]の仲介により隆信と和睦し、隆信の娘との婚儀結ぶ約した(婚儀の約束の時期については諸説あり)
 
柳川は隆信が九州中央へ進出するにあたって必要不可欠な地であったが、鎮漣は[[島津氏]]への接近を図っていた。蒲池氏が島津の傘下に入ることを恐れた隆信は、家臣の[[鍋島直茂]]や、隆信に与していた田尻鑑種などと共に鎮漣の謀殺を画策する。柳川に使者を送り、龍造寺と蒲池の和解のしるしにと鎮漣を猿楽の宴席に誘った。