「ニコラウス・コペルニクス」の版間の差分

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| name = ニコラウス・コペルニクス<br />(Nicolaus Copernicus)
| image = Nikolaus Kopernikus.jpg
| caption =
| birth_date = {{birth date|df=yes|1473|2|19}}
| birth_place = {{nowrap|[[トルン]], [[ポーランド王領プロシア]],<br/>[[ヤギェウォ朝]][[ポーランド王国]]}}
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=== 学生時代 ===
コペルニクスの後見をしていた叔父は彼が[[司祭]]になることを望んでおり、[[1491年]]にコペルニクスは[[クラクフ大学]]に入学し、[[自由七科]]を学んだ。この過程で[[月]]の精密な[[軌道]]計算を史上はじめて行った著名な天文学者で従来より定説とされていた[[天動説]]に懐疑的な見解を持っていた[[アルベルト・ブルゼフスキ]]教授によってはじめて[[天文学]]に触れた。さらにニコラウスが[[化学]]に引き込まれていたことが、[[ウプサラ]]の図書館に収蔵されている当時の彼の本からも窺うことができる。[[1495年]]に学位を取らずにクラクフ大での学業を終えると、叔父の計らいでヴァルミアの[[律修司祭]]の職につき生活の保障を得、1年ほど[[バルト海]]沿岸にあるフロムボルクにいたあと、[[1496年]]には[[イタリア]]の[[ボローニャ大学]]に留学し、[[法律]]([[カノン法]])について学んだ。カノンとローマ法について学んでいる間に、彼の恩師であり著名な天文学者である[[ドメニコ・マリア・ノヴァーラ|ドメーニコ・マリーア・ノヴァーラ・ダ・フェッラーラ]]と出会い、その弟子となった。[[1500年]]にはボローニャ大学での学業を終え、[[ローマ]]を見物したのちにいったんフロムボルクに戻り、ヴァルミアの聖堂参事会に許可を取って[[1501年]]に再びイタリアに留学した。今度の留学先は[[パドヴァ大学]]であり、ここでコペルニクスは今度は[[医学]]を学んだ。この際、コペルニクスは当時医療に必須とされていた[[占星術]]も学んでいる。パドヴァでの学生生活は2年間に及び、最終的には[[1503年]]に[[フェラーラ大学]]でカノン法の博士号を取ったのちにヴァルミアに戻り、再び律修司祭の職に就いて、こののちヴァルミア地方およびその近隣から出ることはなかった<ref>『コペルニクス 地球を動かし天空の美しい秩序へ』p60  O.ギンガリッチ,ジェームズ・マクラクラン 林大訳.大月書店,2008.11.オックスフォード科学の肖像</ref>。
 
=== 地動説の完成 ===
戻ってきた当初コペルニクスは律修司祭ではあったが、ヴァルミア領ではなく叔父付きの補佐となり、リズバルク(リズバルク=ヴァルミニスキ)にある司教宮殿に移り住んだ。ここで聖職者として、また医師として多忙な日々を送るようになったが、一方で余暇を見つけては天体観測を行い、自らの考えをゆっくりとまとめていった。本格的に地動説の着想を得たのは[[1508年]]から1510年ごろと推定されており<ref>『コペルニクス 地球を動かし天空の美しい秩序へ』p84  O.ギンガリッチ,ジェームズ・マクラクラン 林大訳.大月書店,2008.11.オックスフォード科学の肖像</ref>、天動説では[[周転円]]により説明されていた[[順行・逆行#見かけの逆行運動|天体の逆行運動]]を、地球との公転速度の差による見かけ上の物であると説明するなどの理論的裏付けを行っていった。またこのころ彼は[[ギリシア語]]も独習しており、[[1509年]]にはギリシア語からラテン語に翻訳した手紙集を出版している。[[1510年]]にはコペルニクスは叔父のもとから独立し、再びヴァルミア領の律修司祭に戻り、フロムボルクにて職務に就くようになった。そしてこの年、コペルニクスは同人誌として「[[コメンタリオルス]]」(Comentariolus)を出版し、太陽中心説([[地動説]])をはじめて公にした。ただしこれは友人の数学者たち数人に送られたものに過ぎず、一般にはほとんど知られていなかった。
 
=== 司祭として ===
[[1511年]]には聖堂参事会の尚書に選ばれ、文書管理や金融取引の記録を行った。その後も有能で勤勉な司祭として多くの仕事をする一方、フロムボルクの聖堂付近の塔で天体の観測・研究を続け、新しい理論の創造に向かっていた。ただし、コペルニクスは理論家・数学者としては優れていたものの天体観測の腕は必ずしも良くなかったとされる<ref>「Newton別冊  現代の宇宙像はこうして創られた  天文学躍進の400年」p107  ニュートンプレス  2009年5月15日発行</ref><ref>『コペルニクス 地球を動かし天空の美しい秩序へ』p130  O.ギンガリッチ,ジェームズ・マクラクラン 林大訳.大月書店,2008.11.オックスフォード科学の肖像</ref>。[[1512年]]にはヴァルミアの領主司教だった叔父のルーカス・ヴァッツェンローデが死去している。このころには天文学者内において少しずつ名が知られ始めており、[[1515年]]には開催中の[[第5ラテラン公会議]]において改暦が議題に上がる中、[[フォッソンブローネ]]司教であるミデルブルクのパウルがコペルニクスに意見を求めている。
 
[[1516年]]には聖堂参事会の財産管理を担当するようになった。この仕事の過程で[[貨幣]]の質のばらつきとそれによる害に気が付いたコペルニクスは、[[1517年]]に執筆した論文で貨幣の額面価値と実質価値の間に乖離が生じた場合、実質価値の低い貨幣のほうが流通し、価値の高い方の貨幣は退蔵され流通しなくなる (「[[悪貨は良貨を駆逐する]]」) ことを説明するとともに、貨幣の質を安定させ経済を活性化させるために国王が貨幣鋳造を監督し品質を保障することを提案した<ref>『コペルニクス 地球を動かし天空の美しい秩序へ』p121  O.ギンガリッチ,ジェームズ・マクラクラン 林大訳.大月書店,2008.11.オックスフォード科学の肖像</ref>。この論文は[[1519年]]には[[ラテン語]]から[[ドイツ語]]に翻訳され、[[1522年]]には王領プロシアの議会にかけられた。コペルニクスは議会の席上でこの理論について説明し、いくつかの提案が採用され実行された。
 
しかし、このころからヴァルミアを取り囲むように存在する[[ドイツ騎士団国]]が[[ポーランド王領プロイセン]]内ヴァルミアに盛んに侵入を繰り返すようになり、[[1520年]]にはフロムボルクが攻撃され、大聖堂こそ生き残ったものの町は大打撃を受けた。コペルニクスはヴァルミア南部の[[オルシュティン]]へと逃れ、同地の防衛にあたった。[[1521年]]にはオルシュティンが攻撃されたものの2月に休戦協定が結ばれ、コペルニクスは再びフロムボルクへと戻った。1523年には司教が死去したため、次の司教が選出されるまでの9か月間、コペルニクスはヴァルミア全体の行政を担当していた。[[1525年]]にはドイツ騎士団国の最後の総長[[アルブレヒト (プロイセン公)|アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク]]がポーランドに臣従し、プロイセン公を称して[[プロシア公領]]を創設したため抗争は完全に終結した。
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[[1529年]]ごろからコペルニクスは地動説についての論考をまとめ始め、推敲と加筆を繰り返していたが、これを出版するつもりは全くなかった。しかしコペルニクスの考えは友人たちを通じてこのころにはかなり知られるようになっており、[[1533年]]には教皇[[クレメンス7世]]にこの考えが伝えられている。[[1535年]]にはヴァポフスキがコペルニクスの元を訪れ、地動説についての話を聞いている。[[1536年]]には[[枢機卿]]の一人であるニコラス・シェーンベルクがコペルニクスに賞賛の手紙を送っている。しかし、このころはいまだコペルニクスはこの考えを出版する気持ちを持っていなかった。このころには[[ヘウムノ]]の司教となっていた親友のギーゼは何度も出版を進めたが、それでもコペルニクスは動かなかった。
 
[[1539年]]、[[マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク|ヴィッテンベルク大学]]の教授である[[ゲオルク・レティクス]]がコペルニクスのもとを訪れ、地動説の話を聞き、感銘を受けて弟子入りを申し込んで、コペルニクスの唯一の弟子となった。レティクスはコペルニクスの理論を急速に吸収するとともに、この理論の出版を強く勧めた。ここに至ってコペルニクスも重い腰を上げ、自らの理論の集大成に取り組み始めた。[[1540年]]にはレティクスは[[グダニスク]]の出版業者から「最初の報告」を出版させ、コペルニクスの理論の要約を広めるとともに完成版の出版を予告した。コペルニクスとレティクスは理論のチェックを進め、[[1542年]]にはコペルニクスの主著となるであろう『[[天体の回転について]]』の草稿が完成し、[[ニュルンベルク]]の印刷業者であるペトレイウスのもとで印刷された。しかしここでレティクスが[[ライプツィヒ大学]]の数学教授に招聘されたため、レティクスはルター派の神学者[[アンドレアス・オジアンダー]]に[[校正]]を依頼した。こうしてこの理論は出版を待つばかりとなったが、1542年11月にコペルニクスは[[脳卒中]]で倒れ、半身不随となった。仕上がった校正刷りは、コペルニクスの死の当日に彼のもとに届いたという<ref>『コペルニクス 地球を動かし天空の美しい秩序へ』p144  O.ギンガリッチ,ジェームズ・マクラクラン 林大訳.大月書店,2008.11.オックスフォード科学の肖像</ref>。1543年5月24日、コペルニクスは70歳でこの世を去った。
 
[[ファイルFile:KOS sarkofag ze szczątkami Kopernika.jpg|thumb|left|コペルニクスの遺物<br>[[オルシュティン]]の聖ヤコブ大聖堂]]
死後コペルニクスは埋葬されたものの、どこに埋葬されているのかは不明だった。コペルニクスの墓は、各国の学者によって2世紀にわたって捜索が続いていた。こうした中、[[シュチェチン]]大学などのチームがコペルニクスの主な任地であったフロムボルクの大聖堂で[[2004年]]から発掘を進め、大聖堂の深さ約2メートルの場所から[[2005年]]夏、遺骨を発見した。この遺骨は肖像画と頭蓋骨が互いに非常に似ていて、時代と年齢もほぼ一致していたので、遺骨がコペルニクスのものである可能性が高まった。[[2008年]]11月、シュチェチン大学と[[スウェーデン]]の[[ウプサラ大学]]との共同で、この遺骨と、ウプサラ大学で4世紀以上も保管されていたコペルニクスのものとされる本に挟まっていた2本の[[毛髪]]との[[DNA鑑定]]を行い、両者の[[DNA]]の一致によりこの遺骨がコペルニクスのものと最終的に認定された<ref>http://www.afpbb.com/articles/-/2541338  「コペルニクスの遺骸、DNA鑑定で確認される 2世紀にわたる墓探しに終止符」AFPBB 2008年11月23日  2016年1月28日閲覧</ref>。
 
== 著作 ==
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== 地動説 ==
コペルニクスのもっとも重要な業績は地動説の再発見である。当時は[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]が2世紀中ごろに大成した天動説が一般的な学説であったが、惑星観測の精度が上がるたびに惑星の運行を説明するための周転円の数が増えていき、非常に複雑なものとなっていた<ref>「Newton別冊  現代の宇宙像はこうして創られた  天文学躍進の400年」p12  ニュートンプレス  2009年5月15日発行</ref>。この複雑さを解消するためにコペルニクスは地球を太陽の周りを回るものと仮定し、その結果従来の天動説よりもずっと簡単に天体の逆行運動などを説明できることを発見した。ただしコペルニクスは惑星は完全な円軌道を描くと考えており、その点については従来の天動説と同様であり単にプトレマイオスの天動説よりも周転円の数を減らしたに過ぎない。実際には惑星は楕円軌道を描いていることは、[[ヨハネス・ケプラー]]により発見された(もっとも天体が円運動を描いているという仮定により、天文学者は天体の逆行運動の説明を迫られたのであり、そういう思い込みが存在しなかったのならそもそも天体運動を探求する動機すら存在しなかったのであり、コペルニクスが円運動にこだわった限界はやむを得なかったとする評がある<ref>[[竹内薫]]著 『99.9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』[[光文社]]新書 ISBN 978-4334033415</ref>)。
 
== グレシャムの法則 ==
コペルニクスのもう一つの重要な功績は、貨幣の額面価値と実質価値の間に乖離が生じた場合、実質価値の低い貨幣のほうが流通し、価値の高い方の貨幣は退蔵され流通しなくなる (「[[悪貨は良貨を駆逐する]]」) ことを突き止めたことである。これは、当時[[ドイツ騎士団]]が粗悪な[[銀貨]]を鋳造して大量に流通させていたため、隣接するヴァルミアで経済混乱が起きつつあったことに、教会の財務担当だったコペルニクスが気付いたことにより理論化された<ref>『コペルニクス 地球を動かし天空の美しい秩序へ』p121  O.ギンガリッチ,ジェームズ・マクラクラン 林大訳.大月書店,2008.11.オックスフォード科学の肖像</ref>。この理論はほぼ半世紀後、[[1560年]]に彼とは別に独自にこのことに気付いた[[イギリス]]国王財政顧問の[[トーマス・グレシャム]]によって知られるようになり、「[[グレシャムの法則]]」の名で知られるようになった。
 
== 死後の影響 ==
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コペルニクスの説が完全に受け入れられるまでには100年以上の時がかかり、また発表から数十年間は目立った動きは起きなかったものの、最終的にはコペルニクスの説は世界観そのものを覆すような大きな影響力を持つこととなった。18世紀後半には、哲学者[[イマヌエル・カント]]が「[[コペルニクス的転回]]」という言葉を作り、やがてこの言葉が[[パラダイム]]転換と同じような意味で使われるようになったのも、コペルニクスの業績が広く受け入れられるようになったひとつの証左である。
 
== 『天体の回転について』とローマ教皇庁 ==
[[1616年]]、[[ガリレオ・ガリレイ]]に対する裁判が始まる直前に、コペルニクスの著書『[[天体の回転について]]』は、ローマ教皇庁から閲覧一時停止の措置がとられた。これは、地球が動いているというその著書の内容が、『[[聖書]]』に反するとされたためである。(因みに「聖書」には天動説が載っているわけではなく「初めに、神は天地を創造された」という記述があるだけである。)
ただし、禁書にはならず、純粋に数学的な仮定であるという注釈をつけ、数年後に再び閲覧が許可されるようになった。
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[[アメリカ合衆国]]の科学関連の[[ゴンゾー・ジャーナリズム]]雑誌[[OMNI]]の創設者の一人であるアマチュア科学研究者[[ディック・テレシ]]によると、このアイデアはアラビア自然学からの剽窃であり、また近代社会における西欧の興隆にともない、西洋中心主義および白人中心主義史観によって、非西欧文明圏の影響を故意に見落としてきたことがあるとしている<ref>{{Cite book|和書|author=ディック・テレシ|authorlink=ディック・テレシ|date=2005-06|title=失われた発見 : バビロンからマヤ文明にいたる近代科学の源泉|publisher=大月書店|isbn=4-272-44033-0}}</ref>。
 
== ナチス政権下での国籍論争 ==
[[ファイルFile:Jan Matejko-Astronomer Copernicus-Conversation with God.jpg|thumb|left|200px|[[ヤン・マテイコ]]によるコペルニクスの肖像『コペルニクス: 神との対話』]]
[[ドイツ]]で[[ナチス]]が勢力を誇っていた時代は、彼が[[ポーランド人]]か[[ドイツ人]]かが大きな論争の的となった([[コペルニクスの国籍論争]])が、現在は「[[多民族国家]][[ポーランド王国]]の国民(すなわち[[国籍]]はポーランド人)であり、[[クラクフ]]の大学を出るなどポーランドの教育を受けた、この地方の[[ドイツ語]]の方言を母語とする家系([[民族]]はドイツ人)出身の人物」、すなわち「ドイツ系ポーランド人」ということで落ち着いている。
 
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== 参考書 ==
*『太陽よ,汝は動かず コペルニクスの世界』 A.アーミティジ [[奥住喜重]]訳.1962.岩波新書
*『コペルニクス』 [[広瀬秀雄]] 牧書店 1965.世界思想家全書
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== 関連項目 ==
{{commons|Nicolaus Copernicus}}
* [[コペルニクス的転回]]
* [[イブン・シャーティル]] - コペルニクスに影響を与えたとされるイスラム科学者
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== 外部リンク ==
* [http://www.frombork.art.pl/ Muzeum Mikolaja Kopernika ]
{{commons|Nicolaus Copernicus}}
 
*[http://www.frombork.art.pl/ Muzeum Mikolaja Kopernika ]
 
{{Normdaten}}
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