「ドイツ陸軍 (国防軍)」の版間の差分

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また[[戦車]]の保有も禁止されていたが、戦車に関する研究は[[1920年代]]から続けられており、[[1931年]]から[[快速部隊兵監]](Inspekteur der Schnelltruppen)[[オスヴァルト・ルッツ]](Oswald Lutz)少将と[[ハインツ・グデーリアン]]中佐が中心となって、戦車部隊の運用研究に取り組んでいた。'''農業用トラクター'''の名目で[[1号戦車]]が開発され、製造業者に戦車の開発、量産のノウハウを習得させた。乗員は[[ソビエト連邦|ソ連]]との密約によりソ連の奥地[[カザン]]で養成されていた。1号戦車の正式発注はヒトラー政権の誕生した[[1933年]]であった。
 
[[1935年]][[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]はヴェルサイユ条約を破棄し、再軍備を宣言、翌年には非武装地帯である[[フランス]]国境の[[ラインラント]]に軍を進めた([[ラインラント|ラインラント進駐]])。この時に英仏は戦争も辞さないとの確固たる意志態度表明しなかった。兵を送らなかったのである。ヒトラーはこの時のことを「自分の一生の中で最も神経を痛めた」と、回想している。ドイツはこれ以降[[主権]]回復の要求をエスカレートさせる。
ドイツはこれ以降[[主権]]回復の要求をエスカレートさせる。
 
陸軍上層部には、プロイセン陸軍以来の貴族階級([[ユンカー]]:[[ドイツ騎士団]]の伝統を汲む地主の子弟)が多く、軍の地位が脅かされない限り、政治には中立的であった。しかし[[チェコスロバキア]]領内のドイツ人の多く居住する[[ズデーテンラント]]のドイツ帰属を巡ったヒトラーが戦争も辞せずと[[イギリス]]・フランスと対立した[[1938年]]に戦争準備が充分でないとする陸軍参謀総長[[ルートヴィヒ・ベック]]大将を中心とする政府転覆計画が練られたが、英仏の譲歩により計画実施には至らなかった。