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[[1961年]]、[[福岡県]][[小倉市]](現・[[北九州市]])の[[炭鉱|炭鉱町]]に生まれる<ref name="危ない1号第2巻182頁" />。幼少期に[[三重県]][[四日市市]]の[[工業地帯]]に転居し、そこで少年時代を過ごす。父親は[[四日市ぜんそく]]の原因となった会社の環境課に勤めており、[[公害]]問題の反対運動に対処する窓口役であった。山野は当時の四日市について「住むとすぐに[[喘息]]になる街」と述べており、母親も排煙が原因で喘息を患い、山野も[[気管支炎]]で咳が止まらなかったという<ref name="危ない1号第2巻183頁" />。山野はインタビューの中で「両方ともろくでもない労働者の町でした。廻りに文化的な人間なんて一人もいなかったですよ。」と語っている<ref>『月刊漫画ガロ』1994年2月号「混沌大陸パンゲア刊行記念 山野一インタビュー」248頁〜251頁。</ref>。
 
また、山野は自身の少年時代について「普通の公立学校に通って、特に目立たず、何もせずぼうっと暮らしていましたね。不良でもないし、インテリでもないし、読書家でもないし、スポーツもしない、本当に特徴のない子でしたね。あえて無理に言えば何もないっていうのが当時の印象ですね。」と回想しており、「育ったところに対して郷愁なんて何もない」と答えている<ref>『危ない1号』第2巻、184頁。</ref>。
 
中学2年生の時に[[千葉県]]へ移り、[[ヤンキー文化]]に[[カルチャーショック]]を受ける<ref>『危ない1号』第2巻、185頁〜186頁。</ref>。中学卒業後、地元一番の進学校である県内の高校に進学するが、本当に気の合う人は一人も居なかったという<ref>『危ない1号』第2巻、186頁。</ref>。高校卒業後、[[立教大学]]に入学し、大学3年から4年にかけての時期に入部していた美術クラブで漫画を描き始める<ref name="危ない1号第2巻187頁" />。絵や[[デッサン]]に関しては全く習ったことが無く完全に独学だという<ref name="危ない1号第2巻187頁" />。
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=== 「山野一」として ===
大学4年の時に[[青林堂]]に漫画を持ち込み、『[[ガロ (雑誌)|ガロ]]』[[1983年]]12月号に山野一名義で掲載された「ハピネスインビニール」で漫画家デビューする<ref name="月刊漫画ガロ作品リスト" />。以後、『ガロ』で精神の内面や知覚神経をテーマとする作品を描いて活動するが、デビューから2年間は原稿料がまったく支払われず、アルバイトで飢えをしのいでいたという。しかし、この労働経験について「非常に拭い難い汚点を残してしまった。どんなに惨めだろーが落ちぶれ果てよーが二度と再び働きに出るよーな事はすまい、ほんの少しでも世間の方々のお役に立つよーな事はやるまいと密かに心に誓っていた。」と述べており、人生の汚点であったと述べている<ref>『月刊漫画ガロ』1993年6月号、203頁。</ref>。
 
[[1985年]][[2月]]には初の単行本となる『夢の島で逢いましょう』が[[青林堂]]より刊行されるが、山野いわく「初めて単行本が出て印税というものを受け取った時は思わず目頭が熱くなった、あんまり安くて。それも旋盤工の月給程度の金額を御丁寧にも五分割で払ってくださるのだ。世間ではこーゆー人の事を漫画家とは言うまい。」と回想しており、家賃2万風呂なし共同便所の殺風景な六畳一間のアパートでガスも電話も止められ、荒廃した漫画家生活を送っていたという<ref>『月刊漫画ガロ』1993年6月号、203頁。</ref>。