「徳川義直」の版間の差分

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慶長11年([[1606年]])に[[元服]]する。翌慶長12年([[1607年]])4月26日、死去した兄の[[松平忠吉]]の遺跡を継いで尾張国[[清洲藩]]主になると、甲斐25万石は返上され国主・城代不在の城番制に移行する。家康は[[甲信地方|甲信]]及び[[東海道]]の要としての重要なこの地域を管轄すべく、名古屋に天下普請の城郭として[[名古屋城]]を築いて根拠地とした。平岩親吉ら家臣団も尾張へ移り、附家老として尾張[[犬山城]]主となり尾張支配を主導した。義直自身は家康死後の[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])に尾張へ入国する。
 
慶長16年([[1611年]])、9月18日、駿府城内で[[感冒]]にかかった時、侍医諸氏が集結して服薬評議を行った際に、家康は他の処方にこだわる医師の意見を退けて[[漢方薬]]の[[紫雪]]を義直に服用させている。侍医の[[片山宗哲]]に調合させたものだったが、熱気が鎮まり快癒した[[宮本義己]]「徳川家康公と医学」(『大日光』66号、1995年)。
 
慶長19年([[1614年]])、[[大坂冬の陣]]で初陣し、天王寺付近に布陣した。翌年[[大坂夏の陣]]では後詰として活躍した([[天王寺・岡山の戦い]])。