「アントン・ルビンシテイン」の版間の差分

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5歳で母からピアノを教わったのちAlexander Villoingに師事し、9歳で演奏会を開く。その後Villoingと共に[[パリ]]へ渡り、[[パリ音楽院]]への入学を目指すが失敗<ref>このことを根に持っており、[[フェルッチョ・ブゾーニ]]がパリ音楽院への進学を相談したところ、「あんなのいらない」と吐き捨てた話はとくに有名。</ref>。だが[[サル・エラール]]で演奏会を開いたのが縁で[[フレデリック・ショパン]]、[[フランツ・リスト]]と面識を持つ。その後、ヨーロッパからロシアにかけて演奏会を開いて成功を収める。[[1844年]]には[[ベルリン]]で[[フェリックス・メンデルスゾーン]]と[[ジャコモ・マイアベーア]]の知遇を得、マイアベーアの勧めて弟ニコライと共に[[ジークフリート・デーン]]に作曲と音楽理論を学び、後には[[アドルフ・ベルンハルト・マルクス]]にも学ぶ。
 
ロシアを含む[[ヨーロッパ]][[アメリカ]]で精力的に演奏会を開き、ロシアのピアニストとして初めて世界的名声を博してロシア・ピアノ流派の祖となった。また、[[1862年]]にロシア最初の専門的な音楽教育機関である[[サンクトペテルブルク音楽院]]を創設し、[[1859年]]には[[ロシア音楽協会]]を創設した。それまで[[オペラ]]中心であった<ref>ただし、彼は18曲のオペラと1曲のバレエを遺した。</ref>ロシアの音楽活動に[[交響曲]]や[[管弦楽]]、[[室内楽曲]]などを持ち込ませるなど、ヨーロッパの音楽的伝統をロシアに根付かせるために計り知れぬ貢献をした。
 
尊敬していた[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]と容貌がよく似ていたことから「ヴァン二世」と呼ばれていた。
 
ルビンシテインは自身のピアノ演奏を録音に残さなかったものの、彼自身の肉声は蓄音機に録音されており、その現存する[[シリンダーレコード]]からは、弟子で親友でもあった[[ピョートル・チャイコフスキー]]の肉声も同時に聴くことが出来る。
 
晩年は心臓を病み、[[ペテルブルク]]近郊の[[ペテルゴフ]]に没した。ペテルブルクの[[アレクサンドル・ネフスキー大修道院]]に埋葬されている。 国際コンクール制度、国際マスタークラス制度など、彼の発明は現在でも楽壇に残っている。
 
== 作品 ==