「アントン・ルビンシテイン」の版間の差分

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ロシアを含む[[ヨーロッパ]]や[[アメリカ]]で精力的に演奏会を開き、ロシアのピアニストとして初めて世界的名声を博してロシア・ピアノ流派の祖となった。また、[[1862年]]にロシア最初の専門的な音楽教育機関である[[サンクトペテルブルク音楽院]]を創設し、[[1859年]]には[[ロシア音楽協会]]を創設した。それまで[[オペラ]]中心であった<ref>ただし、彼は18曲のオペラと1曲のバレエを遺した。</ref>ロシアの音楽活動に[[交響曲]]や[[管弦楽]]、[[室内楽曲]]などを持ち込ませるなど、[[ヨーロッパ]]の音楽的伝統を[[ロシア]]に根付かせるために、彼はオペラから歌曲までのすべての[[19世紀]]のジャンルで作曲した。これは[[ロシア人]]では初めてのことだった。
 
尊敬していた[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]と容貌がよく似ていたことから「ヴァン二世」と呼ばれていた。彼はこれまでの[[合唱聖歌コンチェルト]]に代わって[[正教徒]]のための[[宗教オペラ]]というジャンルを創出し、没年までこのジャンルに没頭した。
 
ルビンシテインは自身のピアノ演奏を録音に残さなかったものの、彼自身の肉声は蓄音機に録音されており、その現存する[[シリンダーレコード]]からは、弟子で親友でもあった[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]の肉声も同時に聴くことが出来る。
 
晩年は心臓を病み、[[ペテルブルク]]近郊の[[ペテルゴフ]]に没した。ペテルブルクの[[アレクサンドル・ネフスキー大修道院]]に埋葬されている。国際コンクール制度、国際マスタークラス制度など、彼の発明は現在でも楽壇に残っている。
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あらゆるジャンルに膨大な作品を残したが、[[第二次世界大戦]]後ピアニストや指揮者が戦死するなどして、若干の協奏曲、ピアノ曲と歌曲を除いてはほとんど演奏される機会はなくなってしまった。
 
ドイツで学んだ経歴もあり、[[ドイツ]]・[[ロマン派音楽|ロマン主義]]的で保守的な作風は[[民族主義]]的作曲家グループ[[ロシア5人組]]と対立した。その結果として不当に無視されたという面は否めない<ref>[[ニコライ・リムスキー=コルサコフ|リムスキー=コルサコフ]]の[[交響曲第1番 (リムスキー=コルサコフ)#「ロシア初の交響曲」|交響曲第1番]]参照。</ref>。ただし、『交響曲第5番』、『ピアノ協奏曲第4番』などのような民族色の強い作品も残している。ロシアの民族色知らは「西欧楽派」とされる[[こともあるチャイコフスキー]]とルビンシテイン兄弟の仲は悪くなかった<ref>[[ニコライ・ルビンシテイン]]の要請で[[和声法]]の教本を書いたのはチャイコフスキー。</ref>。
 
また、極限かつ非現実的な大作志向<ref>長すぎるため、[[SP]]や[[LP]]に収録できないといった問題もあったが、LPが70分越えの長時間に対応すると受容が進んだ。</ref>であり、2度の改訂の結果全7楽章・約70分にまで拡大した『交響曲第2番』、約50分を要する難曲『ピアノ協奏曲第5番』などのような長大な作品も残した。彼は楽譜にアーティキュレーションや強弱を大まかにしか書かないという癖があり、このおかげで演奏家によって大きく解釈が異なる結果が生まれる。