「内田百閒」の版間の差分

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* 故郷の[[岡山県]]への愛郷心は人一倍強く、岡山での幼少時の思い出を幾度も繰り返し書き続け、阿房列車の旅では[[JR|国鉄]][[岡山駅]]のホームを必ず踏み、窓から風景を凝視するほどであった。[[大手まんぢゅう]]をはじめ、岡山の食べ物にも強く思い焦がれていた。しかし「移り変わった岡山の風景は見たくない」「大切な思い出を汚したくない」として、昭和17年の恩師の葬儀(駅からタクシーで乗りつけ帰路はそのままとんぼ返りした)以外は決して岡山に帰ろうとはしなかった。死後、遺志により分骨されて先祖代々の墓に納められ、やっと帰郷が叶うこととなった。
* 晩年には飼い猫のノラとクルツを溺愛した。ノラが失踪し、その後に居ついたクルツも病死してしまい、その悲しみを綴った『'''ノラや'''』、『'''クルやお前か'''』もまた代表作の一つとなっている。この時ノラについて「今頃は[[三味線]]の胴で突っ張っていらあ」と酔った声での電話があったというが、2011年6月、電話を入れたのは友人でドイツ文学者の[[高橋義孝]]だったことが、発見された高橋の'''多田基'''(ただ・もとい)宛書簡から判明した(もっとも、高橋自身は以前から著作等でこの事実を公表してはいた)。百{{CP932フォント|閒}}はこの電話を受けた時、悲憤のあまり電話口で泣き崩れたという。高橋はこれが原因でしばらく出入り禁止になったという<ref>[http://www.asahi.com/culture/update/0606/TKY201106060250.html 愛猫「三味線に」酔って電話 独文学者、告白書簡] 朝日新聞2011年6月6日</ref>。
* 執筆においては[[旧字]]・[[旧仮名]]遣いを固守し続け、没後においてもこれを守り通していた。言葉遣いのわずかな違いにも厳しかったことは、弟子の[[平山三郎]]『百鬼園先生雑記帳』(三笠書房)<ref>著者平山三郎は、下記の関連著作が『実歴阿房列車先生』(下記)、『阿房列車物語』(論創社)、『詩琴酒の人 百鬼園物語』([[小沢書店]])などの関連多数作があるした。<br> また『現代の随想2 内田百{{CP932フォント|閒}}集』(彌生書房、1981年(昭和56年))を編み、旺文社文庫で手紙・座談と『回想の百鬼園先生』を編んでいる。</ref>での一文からも窺い知ることができる。生誕百年に当たる[[1989年]]([[平成]]元年)になり、弟子の[[小説家]][[中村武志 (小説家)|中村武志]]の判断によって、著作権者の遺族の許可の下に、[[文庫本|文庫]]に限っては特殊なものを除いて新字・新仮名遣いで発行されるようになった。
* 女優[[高峰秀子]]は最も愛読する作家として百{{CP932フォント|閒}}の名を挙げている。