「エンリコ・フェルミ」の版間の差分

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エンリコ・フェルミは夫人がユダヤ人だったため、ファシスト政権下のイタリアからアメリカに亡命したと言われるが、法的には米コロンビア大学のスポンサーによる移住でした。
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=== マンハッタン計画 ===
妻のラウラ・カポーネは[[ユダヤ人]]であった。そのため、[[ベニート・ムッソリーニ]]の[[ファシスト]]政権下では迫害を受ける。1938年のノーベル賞授賞式出席のためイタリアを出国。[[ストックホルム]]で賞を受け取ったが、そのままアメリカに亡命移住した。1939年、[[コロンビア大学]]の物理学教授となった。アメリカへの亡命移住直後にフェルミは、[[オットー・ハーン]]がドイツで[[核分裂]]実験を成功させたと知る。
 
アメリカでは核分裂反応の研究に従事し、1942年、[[シカゴ大学]]で世界最初の[[原子炉]]「[[シカゴ・パイル1号]]」を完成させ、原子核分裂の[[連鎖反応 (核分裂)|連鎖反応]]の制御に史上初めて成功した。この原子炉は[[原子爆弾]]の材料となる[[プルトニウム]]を生産するために用いられた。アメリカ合衆国の原子爆弾開発プロジェクトである[[マンハッタン計画]]でも中心的な役割を演じ、1944年に[[ロスアラモス国立研究所]]のアドバイザーとなった。