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===横浜・DeNA時代===
入団を機に打者へ転向するとともに、[[スイッチヒッター]]に挑戦した。本来は右打者だが、社会人での4年間に1度もバットを握っていなかったため、ブランクを埋めようと必死に打撃練習に取り組んだ<ref>{{cite web|url=http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=015-20121022-12|title=泥臭く積み重ねてきた1500安打|publisher=週刊ベースボールONLINE|accessdate=2015-08-29}}</ref>。1年目の{{by|1999年}}[[10月3日]]の対[[中日ドラゴンズ]]戦でプロ初出場。
 
翌{{by|2000年}}、対[[読売ジャイアンツ]]戦で代打で出場し[[槙原寛己]]からプロ入り初本塁打を記録。これをきっかけに2番打者、[[三塁手]]のレギュラーに定着。驚異的なペースでヒットを積み重ね、[[打率]]が一時4割を超え話題となった。[[8月18日]]の対[[阪神タイガース]]戦で打率.384で[[規定打席]]に到達した<ref>2001 ベースボール・レコード・ブック 53頁 「2000年度の主な記録と出来事」より。</ref>。そのまま閉幕まで打率トップを維持し、[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]のタイトルを獲得し[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]に選出された。同時受賞はプロ野球史上初であり、横浜の選手が新人王となるのは[[齊藤明雄|斉藤明雄]]以来23年ぶりであった。オフにはテレビCMにも出演するなど飛躍の一年となったが、当時、球団が金城の人気を盛り立てようとファンから募集して決まった「ハマの龍神」というニックネームは、あまり定着しなかった。
 
{{by|2001年}}三塁手としては[[失策]]が目立ったことや、俊足・強肩を生かすため、新監督の[[森祇晶]]の意向でこの年から[[外野手]]へ本格転向。他球団のマークが厳しくなったこと、サインプレーを好む森監督の采配によって2番打者としての要求が増え、自由な打撃が出来なくなったことなどから打率を大きく下げたが、球団記録となる43[[犠打]]を記録するなど繋ぎ役として活躍。
 
しかし{{by|2002年}}はキャンプイン前の減量が仇になり、さらに大きく打率をさげて1割台に終わった。
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{{by|2007年}}は多村が[[福岡ソフトバンクホークス]]へ移籍したこともあり、再び中堅手に戻る。前半戦は打撃不調に陥るが、後半戦で打率を2割8分台まで持ち直した。2度目のゴールデングラブ賞を受賞した。
 
{{by|2008年}}は4月に猛打賞を3度記録するなどしたが、夏場には調子を落とし、[[スターティングメンバー|スタメン]]落ちもしばしば経験した。最終的には打率.247で、本塁打も9本の成績に終わった。[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA権]]を取得したが、FA権は行使せず残留することを表明し、横浜と2年の複数年契約を結んだ。
 
{{by|2009年}}以降開幕スタメンを逃してスタメン出場激減し、守備固めや代打として出場することが目立つようになった。118試合に出場して打率.282と好調だったがスタメン出場が減ったことで2002年以来7年ぶりの規定打席不足に終わった。
 
{{by|2010年}}は96試合の出場に終わって打率も2割を辛うじて超える程度だった。オフにFA権を行使したが他球団からオファーはなく、年俸5000万円の1年契約で横浜に残留した。
 
{{by|2011年}}は体重を首位打者を獲った当時に戻した。開幕スタメンこそならなかったが、前半戦はレギュラーに定着。夏場はスタメン落ちが増えるも安定した成績を残していたが、9月26日の[[広島東洋カープ]]戦で走塁中に左足を痛め、左大腿二頭筋肉離れで全治4~6週間と診断され戦線を離脱したする。そのまま復帰できずにシーズンを終え、108試合の出場に留まったが打率.272と一定の成績は残した。
 
[[File:20120318 Tatsuhiko Kinjoh, outfielder of the Yokohama DeNA BayStars, at Yokohama Stadium.JPG|250px|rightt|thumb|金城の打撃フォーム<br/>(2012年3月18日、横浜スタジアム)]]
{{by|2012年}}は開幕スタメンに名を連ね、4月1日の開幕第3戦となる対阪神戦で[[横浜DeNAベイスターズ]]としてのチーム第1号本塁打を放つ。9月14日の対[[東京ヤクルトスワローズ]]戦([[明治神宮野球場]])にて[[村中恭兵]]からこの日2安打目となるヒットをセンター前へ放ち、通算1500本安打を達成。スタメンの機会は多かったが、代打での打率が3割越えを記録するなど、代打で結果を残すことが多かった。129試合に出場したが規定打席不足で打率.238と不調で一方得点圏打率.132に終わるなど、チャンスには極端に弱かった。結局、オフには40%ダウンの3000万円プラス出来高で[[契約更改]]を行った<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20121121-1049910.html 【DeNA】金城40%減「こういう世界」] - 2012年11月21日,日刊スポーツ</ref>。
 
{{by|2013年}}[[5月25日]][[千葉ロッテマリーンズ]]戦で[[成瀬善久]]から通算100号本塁打を達成したこの年は規定打席不足ながら118試合に出場し、打率.291、本塁打6、打点36の好成績記録した。
 
{{by|2014年}}[[5月26日]]の[[オリックスバファローズ|オリックス]]戦([[横浜スタジアム]])の延長10回2死一、二塁の場面で代打で出場、サヨナラ打となる中前適時打を放つ。通算8本目のサヨナラ安打は球団タイ記録となった<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20140527-1307599.html キヨシ的中!代打金城10回サヨナラ打]ニッカンスポーツ2014年5月27日配信</ref>。しかし、90試合に出場したが打率.200の不振一軍[[2002年の野球|2002年]]以来の本塁打0に終わった。シーズン終了後には、現役からの引退とコーチへの就任を打診した球団に対して、[[フリーエージェント (日本プロ野球)|海外FA権]]の行使を宣言。球団が宣言選手の残留を認めない方針を立てているため、事実上退団が決まった<ref name=hochi141115>[http://www.hochi.co.jp/giants/20141115-OHT1T50305.html FA金城45分で即決!巨人と初交渉、代打の切り札で期待]スポーツ報知2014年11月15日配信</ref>。この経緯から事実上金城は戦力外だったともいえる
 
===巨人時代===
海外FA権の行使を宣言した金城に対して、巨人だけが交渉に応じたため、[[2014年]][[11月15日]]の初交渉で同球団への入団に合意<ref name=hochi141115 />。[[2014年]][[12月8日]]の入団記者会見には、自身と同じくFA権の行使によってヤクルトから移籍した横浜時代の同僚・[[相川亮二]]も顔を揃えた。背番号は'''33'''<ref>[http://www.giants.jp/G/gnews/news_399160.html V4へ新戦力加入 相川、金城の両選手が入団決定]巨人球団公式サイト2014年12月8日配信</ref>。
 
{{by|2015年}}春先から野手の故障者や不振が相次いだことを受けて開幕から1番打者としてスタメンに起用された。古巣・DeNAと横浜スタジアムで対戦した[[4月15日]]には移籍第1号となる3点本塁打を放ってチームの勝利に貢献した。試合後には移籍後初めて同スタジアムでヒーローインタビューを受けた。しかし、試合を重ねるにつれて打率が徐々に下降。左前腕外頭部の損傷で登録を抹消された6月以降は1、一公式戦での出場機会がなかった。2軍の[[イースタン・リーグ]]優勝で臨んだ[[福岡ソフトバンクホークス]]との[[ファーム日本選手権]]([[10月3日]]・[[サンマリンスタジアム宮崎]])では、「7番・左翼手」として[[スターティングメンバー|スタメン]]に起用され<ref>[http://www.npb.or.jp/farmchamp/2015start.html 2015年プロ野球ファーム日本選手権 先発メンバー]</ref>と、3安打を放って優秀選手賞を受賞<ref>[http://www.hochi.co.jp/giants/20151003-OHT1T50104.html 【巨人】久保、ラスト登板で1回無失点 20年ぶりファーム日本一逃す]スポーツ報知2015年10月3日配信</ref>。その一方で、1公式戦への出場は36試合に留まり打率.233、1本塁打、10打点不調のまシーズンを終えた。
===巨人時代===
{{by|2015年}}は春先から野手の故障者や不振が相次いだことを受けて開幕から1番打者としてスタメンに起用された。古巣・DeNAと横浜スタジアムで対戦した[[4月15日]]には移籍第1号となる3点本塁打を放ってチームの勝利に貢献した。試合後には移籍後初めて同スタジアムでヒーローインタビューを受けた。しかし、試合を重ねるにつれて打率が徐々に下降。左前腕外頭部の損傷で登録を抹消された6月以降は1軍出場機会がなかった。2軍の[[イースタン・リーグ]]優勝で臨んだ[[福岡ソフトバンクホークス]]との[[ファーム日本選手権]]([[10月3日]]・[[サンマリンスタジアム宮崎]])では、「7番・左翼手」として[[スターティングメンバー|スタメン]]に起用された<ref>[http://www.npb.or.jp/farmchamp/2015start.html 2015年プロ野球ファーム日本選手権 先発メンバー]</ref>と、3安打を放って優秀選手賞を受賞<ref>[http://www.hochi.co.jp/giants/20151003-OHT1T50104.html 【巨人】久保、ラスト登板で1回無失点 20年ぶりファーム日本一逃す]スポーツ報知2015年10月3日配信</ref>。その一方で、1軍出場は36試合に留まり打率.233、1本塁打、10打点と不調のままシーズンを終えた。
 
[[2015年]][[10月18日]]に球団へ任意引退を申し入れた。球団は、この申し入れを受諾したうえで、金城の現役引退を発表した<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/1554443.html 巨人金城が引退 今季FAで加入、00年に首位打者]-2015年10月18日,日刊スポーツ</ref>。[[11月5日]]に、[[日本野球機構]](NPB)から任意引退選手として公示された<ref>[http://www.npb.or.jp/players/2015pn_retired.html 2015年度 任意引退選手] - 2015年11月5日閲覧</ref>。
 
===現役引退後===
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右打席のときはバットを振り切り、左打席ではフォロースルー直後に一塁へ駆け出す<ref>{{cite web|url=http://www.hochi.co.jp/giants/20141223-OHT1T50191.html|title=金城、バットで“二刀流”!左と右で1センチ違う|publisher=スポーツ報知|date=2014-12-24|accessdate=2015-08-29}}</ref>。上体を突っ込み気味にしながら打つというプロ野球選手でも珍しいバッティングフォームだが、ボールとの距離感を掴むためにはこのフォームが一番打ちやすいという<ref name="kinjo2011"></ref>。
 
横浜時代の通算8本のサヨナラ安打は球団最多タイ記録である<ref>{{cite web|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/05/27/kiji/K20140527008243470.html|title=金城 サヨナラ男だ!球団最多8度目の劇打で連敗止めた|publisher=スポニチ|date=2014-05-26|accessdate=2015-08-28}}</ref>。
 
礼儀正しく謙虚な人柄である。子どもの頃から人に対してとても優しく謙虚な姿勢の父を見てきたため、その姿をずっと目標にしてきたとのことである<ref>[http://www.hamaspo.com/sport/vol_s001/club.html これまでの道 これからの道 横浜ベイスターズ 金城龍彦選手] SPORTSよこはま</ref>。