「桓齮」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
9行目:
[[紀元前234年]](始皇帝13年)、趙の平陽を攻めて、敵将・扈輒(こちょう)を殺し、首を斬ること10万であった。
[[紀元前233年]](始皇帝14年)、再び趙を攻めて、平陽と武城を平定した。宜安を攻めたが趙の[[大将軍]]・[[李牧]]に敗れた。[[戦国策]]の趙策四によれば、この敗戦で李牧に討たれたとされる<ref>[http://www.chineseclassic.com/content/1200 卷二十一 趙策四]</ref>。
==桓齮、樊於期同一人物説==
史記においてはその後の経歴は不明であるが、中国の[[歴史家]]楊寛は、著書『戦国史』で敗戦の処罰を恐れた桓齮は[[燕_(春秋)|燕]]に亡命し、樊於期と名を改めたという説を唱えた。
==脚注==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
|