「ジョン・ホワイトハースト」の版間の差分

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1736年、息子のホワイトハーストはダービーで独立して事業を始め、彼ならではの工夫に富んだ機械製品をいくつも製作することで、重要な仕事を引き受けるようになった。中でも、彼は市役所の時計台を手がけ、それによって1737年9月6日に市の代議士に選出された。彼はまた温度計、気圧計、その他の自然科学に関する機器を製作し、また水道施設の工夫にも関心を寄せていた。機械学、空気力学、水力学の技術が必要とされる時には、ダービーシャーや近隣の州からあらゆる事業について彼に相談が持ちかけられた。
 
1774年、彼は[[ロンドン]]の{{仮リンク|[[王立造幣局|en|Royal Mint}}]]に職を得た。1775年、金貨の統制を改善させるための法案が成立すると、ホワイトハースト自身は特に自薦活動はしていなかったのだが、ニューカッスル公の推薦により、貨幣重量の刻印担当者になった<ref>{{Cite web | title=Industrial Revolution: A Documentary History | url=http://www.adam-matthew-publications.co.uk/digital_guides/industrial_revolution/brief%20chronology.aspx | publisher=Adam Matthew Publications | language=英語 | accessdate=2011-07-24}}</ref>。ホワイトハーストはロンドンに移った後、終生そこで科学の研究を続け、(それまで{{仮リンク|ジェームズ・ファーガソン (1710-1776)|en|James Ferguson (1710–1776)|label=ジェームズ・ファーガソン}}の住居だった)フリート・ストリートのコルト・コートの自宅で著名な科学者たちの訪問を受けた。
 
1778年、ホワイトハーストは地質学的な地層に関する学説を『地球の原初状態と形成に関する研究』<!-- 邦題は便宜的なものです。2011-07-24 -->という本で発表した。彼がダービーに居た頃から書き始められていたというこの著作の大元の意図とは、地下に眠る有用な鉱物をより容易に発見できるようにするというものだった。彼は自分の研究にあまりに根を詰めたため、健康を損ないがちだった。