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伝統的権威を求心力とした時代、その重要な要素である血縁や格式が武士の心理において大きく作用した。それは実力がものをいう戦国時代においても同様である。故に、こうした守護や国人などの家政において中枢を占めた庶家衆の多くは宗家たる主家と同族であることを誇りにし、主家に対する忠誠も厚かった。しかし、それはあくまで主家との一定の自立を前提としていた。それは、庶家も主家同様、領土と居城、家臣を養い、主家から一定の独立を保った者も少なくなく、主君と家臣という強固な主従関係というよりは、事実上、宗家を盟主とする同盟関係という性格が強いものであったことによる。それだけに主家と利害対立が起こると、公然と反抗する者もあり、時として主家に攻め込んだり、或いは[[幕府]]に願い出て宗家からの自立を図ることもあった。特に戦国時代に入ると、その動きはより顕著となり、庶家の中にも主家に忠実かつ従順な者もいる一方で、主家を圧倒する者や主家の家政を牛耳る者、主家を追放し[[下克上]]を起こす者も登場するようになった。
 
主家の実権を掌握した庶家の代表例が[[室町幕府]][[管領]]のひとつ、[[細川氏]]である。細川氏は[[足利将軍家]]同様、[[足利氏]]の流れを汲み、同じく将軍家と同族である[[斯波氏]]、[[畠山氏]]とともに、[[管領]]職を持ち回りで司ってきた。しかし、[[応仁の乱]]により将軍の権力が失墜すると、細川氏は三管領筆頭の斯波氏、畠山氏を圧倒し、幕政を牛耳るようになった。特に[[管領]] [[細川政元]]は[[征夷大将軍|将軍]][[足利義稙]]を追放し、次期将軍に幼い[[足利義澄]]を擁立しこれを傀儡化させ、幕政を牛耳っており、[[室町幕府]]は事実上、細川氏の政権となった。
 
また、宗家たる主家に取って代わった例として[[出雲国|出雲]]の[[戦国大名]] [[尼子氏]]がある。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、[[出雲国|出雲]]においては[[京極氏]]が出雲守護職に補任されてきたが、同氏が室町幕府において三管領に次ぐ[[四職]]の家柄にあり、北近江守護職を兼務していたことから、京極氏の庶流である[[尼子氏]]が、京極氏の[[守護代]]として出雲国を任されていた。しかし、守護 [[京極政経]]の代に入ると、政経は守護代 [[尼子経久]]と次第に対立を深め、政経が経久を追放すると、その翌年には尼子経久が奇襲を持って主家を攻め、主君より領土と実権を奪い、出雲守護となった。このように、戦国時代に入ると主家を打倒或いは追放して主君の座を奪う者、主家から離反し他家に転ずる者、主家を傀儡化し家政を牛耳る者も現れるようになった。