「バスティーユ襲撃」の版間の差分

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== 概要 ==
[[1789年]]の5月5日に175年ぶりの[[三部会]]が開かれたが、これは民衆からなる第三身分を大いに失望させるものであった。その後も空転を続ける三部会に対し、民衆は6月17日に[[憲法制定国民議会|国民議会]]と称する集会を開き、この集まりに他の2身分の合流を呼びかけた。このような第三身分の強硬な姿勢に対し、王弟[[シャルル10世 (フランス王)|アルトワ伯]]は議場を閉鎖するという断固たる措置を講じた。この結果、議場から締め出された第三身分代表たちは、6月29日に議場に隣接する球戯場(「テニスコート」と訳されることがある)で、「憲法制定までいかなる状況でも会議を解散せず、継続する」ことを誓った。有名な[[球戯場の誓い|]]である(かつては誤って「テニスコートの誓い]]である」と日本語訳されていた)。これに対し国王政府は、王妃[[マリー・アントワネット]]ら実権を握る保守派を中心に武力行使も辞さない姿勢を見せたが、聖職者の多くと貴族47名が国民議会に合流。ついに国王[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]は反対派を押し切って国民議会を承認し、聖職者、貴族の全てに国民議会への合流を認めたのであった。続く7月9日には国民議会は憲法制定議会と改称し、本格的な憲法制定作業に取り掛かった。一方国王政府は国民議会を承認する姿勢を見せつつも、国民議会の恫喝と治安悪化を理由に、軍隊を[[ヴェルサイユ]]に召集した。
 
== 襲撃 ==