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*[[1586年]]に若狭で、[[1598年]]には越前で[[太閤検地]]が実施され、結果、若狭が8万5000石、越前が68万石となった。
;[[江戸時代]]
*[[越前国]]
**[[1600年]]の[[関ヶ原の戦い]]の後、戦功第一の恩賞として[[結城秀康]]に越前一国および下野国結城郡75万石が与えられる([[北ノ庄藩]])。越前松平家は、将軍家徳川秀忠の兄の家ということから、制外の家(各種特権が許された家)または、御三家に次ぐ家という意味で四家などともよばれる。
**[[1623年]]、秀康の長男[[松平忠直]]は[[狼藉]]を理由に[[豊後国]]荻原に配流された。かわりに秀康次男の[[越後高田藩]]主[[松平忠昌]]が幕命により相続し、忠直の長男[[松平光長]]には[[越後国]]高田([[上越市]])に新たに領地が与えられた。このとき北ノ庄藩は規模を縮小し、余地をもって[[越前勝山藩]]、[[大野藩]]、[[丸岡藩]]などの複数の小藩が成立。また、敦賀郡はいったん[[幕府領]](天領)となった後、[[小浜藩]]領となり、後に小浜藩支藩の[[敦賀藩]]などが成立した。このように、越前は複数の藩に分割統治されることとなった。江戸幕府八代将軍[[徳川吉宗]]が若かりし頃、領地を持っていたこともあった。[[交代寄合]]旗本の陣屋としては白崎陣屋の[[金森氏]]がある。忠昌の越前入部の際、北ノ庄は福居(後に'''[[福井市|福井]]''')に改称された。これが福井市および県名の由来とされている。
**その後、[[鯖江藩]]などが成立する。その他越前には福井藩の支藩や幕府領、旗本領、国外の大名の領地もあり、多数の領主によって分割統治される状態が明治まで続いた。忠昌の子孫である越前松平家は紆余曲折を経ながらも福井藩主として幕末まで残った。出雲松江藩主家や播磨明石藩主家、上野前橋藩主家などの大藩の藩主家は忠昌の弟達から始まる越前松平家傍流にあたり、津山松平家は忠直の息子光長に関係する傍流である。<!---ここでは必要ないかと。 幕末期には、これら本、枝流あわせた越前松平家の全国での総石高は100万石を超えていた。---><!---以上の越前松平氏本家論争は、乱雑な私論・主張・曲解を排除し、江戸徳川幕府の公式見解に則った意見を書いてあります。--->
*[[若狭国]]
**[[1600年]]の[[関ヶ原の戦い]]の軍功により、[[京極高次]]に若狭一国が与えられる([[小浜藩]])。
**[[1634年]]、小浜藩は[[京極忠高]]に代わって幕府[[老中]]の[[酒井忠勝 (若狭国小浜藩主) |酒井忠勝]]が領主となり、その後、[[廃藩置県]]まで酒井氏が若狭を統治する。<ref>『日本の特別地域特別編集65 これでいいのか福井県』47頁~48頁 (地域批評シリーズ)</ref>