「ルートヴィッヒ・ボルツマン」の版間の差分

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[[ジョン・ドルトン]]が提唱した[[原子論]]は当時の科学会では完全に受け入れられておらず、原子論の立場をとるボルツマンは、[[実証主義]]の立場から原子の存在を否定する[[エルンスト・マッハ]]や[[ヴィルヘルム・オストヴァルト]]らと対立し、激しい論争を繰り広げた。そのためもあって晩年は[[双極性障害]]に苦しみ、アドリア海に面した保養地[[ドゥイーノ]](現在は[[イタリア]]・[[フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州]])で静養中、家族が目を離したすきに[[自殺]]した。ウィーン中央墓地の14C区に葬られている。その墓石には「S=k. log W」の刻印がある。
 
== 評価 ==
ボルツマンは、[[クラウジウス]]が、1850年の論文において、純粋にマクロ的な概念として、[[カルノーサイクル]]上の関数として発見した[[エントロピー]]を、そのおよそ50年後に、[[統計力学]]の立場から見直し、[[エントロピー]]を原子の分布の仕方の尺度として再定義した事になる。今日、[[エントロピー]]の解説として、啓蒙書などで広く語られる「デタラメさの尺度」と言う[[エントロピー]]の通俗的概念は、[[エントロピー]]の本来の定義ではなく、ボルツマンが上記の式によって証明した「[[定理]]」である事を認識する必要が有る。イギリスの科学史家[[ブロノフスキ]]は、BBCが1970年代に制作した科学史番組『人間の時代』において、こうしたボルツマンの科学史上の役割を取り上げ、ボルツマンこそは、原子を実在の対象と考えた最初の科学者であったと述べ、ボルツマンが科学史において果たした役割を称賛している。
 
 
== 関連項目 ==
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[[Category:19061844]]
[[Category:1906年没]]
[[Category:オーストリアの物理学者]]
[[Category:オーストリアの哲学者]]
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[[Category:ウィーン大学の教員]]
[[Category:ウィーン大学出身の人物]]
[[Category:1844年生ドイツ系オーストリア人]]
[[Category:1906年没]]
[[Category:自殺した人物]]