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ツバキは『[[日本書紀]]』において、その記録が残されている。[[景行天皇]]が九州で起こった[[熊襲]]の乱を鎮めたおり、[[土蜘蛛]]に対して「海石榴(ツバキ)の椎」を用いた。これはツバキの材質の強さにちなんだ逸話とされており、[[正倉院]]に納められている災いを払う[[卯杖]]もその材質に海石榴が用いられているとされている。[[733年]]の『出雲風土記』には海榴、海石榴、椿という文字が見受けられる。しかし、これらが現在のツバキと同一のものであるかについては議論の余地がある。
 
『万葉集』において、ツバキが使用された歌は9首ある<ref>萬葉集1巻54,
『万葉集』において、ツバキが使用された歌は9首あるが、[[サクラ]]、[[ウメ]]といった材料的な題材と比較すると数は多くない。『[[源氏物語]]』においても、「つばいもち」として名が残されている程度であり、室町時代までさほど芸術の題材として注目された存在ではなかった。しかし、風雅を好む[[足利義政]]の代になると、[[明]]から椿堆朱盆、椿尾長鳥堆朱盆といった工芸品を数多く取りよせ、[[彫漆]]、[[螺鈿]]の題材としてツバキが散見されるようになった。また、[[豊臣秀吉]]は[[茶の湯]]にツバキを好んで用い、茶道においてツバキは重要な地位を占めるようになる。江戸時代に入ると、二代目将軍徳川秀忠がツバキを好み、そのため芸術の題材としてのツバキが広く知られるようになった。この時期、[[烏丸光広]]、[[林羅山]]が相次いで『百椿図』を描き、絵画、彫刻、工芸品へツバキが定着する。また、ツバキの栽培も一般化し、園芸品種は約200種にも及んだ。
巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ偲はな巨勢の春野を, 坂門人足
</ref><ref>萬葉集1巻56,
川上のつらつら椿つらつらに見れども飽かず巨勢の春野は, 春日蔵首老
</ref><ref>萬葉集1巻73,
我妹子を早見浜風大和なる我を松椿吹かざるなゆめ, 長皇子
</ref><ref>萬葉集7巻1262,
あしひきの山椿咲く八つ峰越え鹿待つ君が斎ひ妻か
</ref><ref>萬葉集13巻3222,
みもろは 人の守る山 本辺は 馬酔木花咲き 末辺は 椿花咲く うらぐはし 山ぞ 泣く子守る山
</ref><ref>萬葉集19巻4152,
奥山の八つ峰の椿つばらかに今日は暮らさね大夫の伴, 大伴家持
</ref><ref>萬葉集19巻4177,
我が背子と 手携はりて 明けくれば 出で立ち向ひ 夕されば 振り放け見つつ 思ひ延べ 見なぎし山に 八つ峰には 霞たなびき 谷辺には 椿花咲き うら悲し 春し過ぐれば 霍公鳥 いやしき鳴きぬ 独りのみ 聞けば寂しも 君と我れと 隔てて恋ふる 砺波山 飛び越え行きて 明け立たば 松のさ枝に 夕さらば 月に向ひて あやめぐさ 玉貫くまでに 鳴き響め 安寐寝しめず 君を悩ませ
大伴家持
</ref><ref>萬葉集20巻4418,
我が門の片山椿まこと汝れ我が手触れなな土に落ちもかも, 物部廣足
</ref><ref>萬葉集20巻4481,
『万葉集』あしひきの八つ峰の椿つらつらおい見とも飽かめや植ゑ、ツバキが使用された歌は9首あが、君, 大伴家持</ref>。[[サクラ]]、[[ウメ]]といった材料的な題材と比較すると数は多くない。『[[源氏物語]]』においても、「つばいもち」として名が残されている程度であり、室町時代までさほど芸術の題材として注目された存在ではなかった。しかし、風雅を好む[[足利義政]]の代になると、[[明]]から椿堆朱盆、椿尾長鳥堆朱盆といった工芸品を数多く取りよせ、[[彫漆]]、[[螺鈿]]の題材としてツバキが散見されるようになった。また、[[豊臣秀吉]]は[[茶の湯]]にツバキを好んで用い、茶道においてツバキは重要な地位を占めるようになる。江戸時代に入ると、二代目将軍徳川秀忠がツバキを好み、そのため芸術の題材としてのツバキが広く知られるようになった。この時期、[[烏丸光広]]、[[林羅山]]が相次いで『百椿図』を描き、絵画、彫刻、工芸品へツバキが定着する。また、ツバキの栽培も一般化し、園芸品種は約200種にも及んだ。
 
「花椿」は[[春]]の[[季語]]であるが、「寒椿」「冬椿」は[[冬]]の[[季語]]。