「江蘇省」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2012年5月16日 (水) 14:37 (UTC)}}
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{{基礎情報 中華人民共和国の一級行政区画
| Header = 江蘇省
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=== 宋元時代 ===
[[宋 (王朝)|宋代]]、江蘇地区では富裕商人階層と新興の商工業経済が発展し、蘇州と揚州等の主要都市は商業の中心となり富裕と贅沢の代名詞となった。宋朝は江南東路、両浙(浙東・浙西)西路、淮南東路を設置している。[[1127年]]、[[金 (王朝)|金朝]]が華北を征服すると宋朝は江南地区に避難、[[南宋]]が成立した。この時期江蘇北部の淮河は金と南宋の境界線となった。これ以後、江蘇の南北に顕著な経済格差が現れ、文化の差異も強められた。13世紀、[[モンゴル人]]が中国全土を掌握すると[[元 (王朝)|元朝]]により江東建康道、江南浙西道、淮東江北道が設置されている。 
 
=== 明代 ===
[[1368年]]、[[朱元璋]]が明朝を建国、中原を占拠していたモンゴル人を駆逐すると都城を南京に設置、江蘇地域は'''応天府'''として南京に直属した。江蘇と安徽各府と直隸州直属の中央の全域は、直隸(北京遷都後は南直隸に改称)と称された。江蘇地域には7府が設置されその内5府(応天府(南京)、蘇州府、[[松江区|松江府]]、[[常州市|常州府]]、[[鎮江市|鎮江府]])は江南に位置し、その北部に揚州府と[[淮安市|淮安府]]の2府が設置されている。
 
[[1421年]]、[[永楽帝]]が北京遷都を実施すると、南北両京(北京・南京)および両直隸はその後200年にわたり並存することとなった。蘇州地区では紡績業が発達したことから明代の経済的中心地となり、[[工業化]]と[[都市化]]の先進地域として大小市鎮(都市)が広く分布し、地価は高く、各種の税賦が設置されていた。また揚州と淮安地区も北京に糧食を運送する[[京杭大運河]]の[[漕運]]と専売化されていた塩取引の中心地であり、中国長江以北の商業中心地の一つとして発展していた。経済的繁栄を実現すると同時に国内随一の文化地域となり、中国文化に大きな影響を与えている。例えば、[[状元]]([[科挙]]の最高試験[[殿試]]に最高成績で合格した者)となった人数は長期にわたり大きな比重を占めていた(清代の数字では全省の40%40%、蘇州府の20%)20%)
 
=== 清代 ===
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| colspan="11" style="font-size:larger" |[[File:Jiangsu prfc map.png|350px]]
|-
!! scope="col" rowspan="1" | No.
!! scope="col" rowspan="1" | 名称
!! scope="col" rowspan="1" | 中国語表記
!! scope="col" rowspan="1" | [[拼音]]
!! scope="col" rowspan="1" | 面積<br>(K㎡Km{{sup|2}})
!! scope="col" rowspan="1" | 人口<br>(2010)
!! scope="col" rowspan="1" | 政府所在地
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長江下流デルタは[[元 (王朝)|元]][[明]]時代から経済的先進地域で、経済規模では[[広東省]]に次ぐ全国第2の省内総生産を誇る。2010年度の一人当たりGDP(PPP)は約13,178ドル(52,000元)。2009年度対外輸出額は591億ドル、外国資本導入額は158億ドルであった。省内では[[上海市|上海]]に近い[[蘇州市|蘇州]]の工業が発達しており、経済規模自体が省都南京を上回る。
 
中国では2000年代初頭から、政府による後押しを受けて造船会社が急増。10年間で、新規の建造能力が3倍に拡大、[[造船所]]の数は2012年は1,647に達した。江蘇省には、うち60%60%以上が集中している<ref>{{Cite news
|url=http://www.asahi.com/business/reuters/RTR201307080080.html
|title=公的支援要請の中国熔盛、「大きすぎてつぶせない」のか