「維新の三傑」の版間の差分

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一方、獲鹿野史『薩長幕三傑伝』([[1900年]]12月、上田屋書店。[[1909年]]2月、盛林堂より『明治三傑伝』として再刊)が三傑を「西郷・[[大村益次郎]]・[[勝海舟]]」としたような異説もあった<ref>これを取り上げた[[宮武外骨]]は双方に、「依怙の選定」「偏見の一つ」と辛辣な評を与えている(宮武外骨『明治奇聞』(河出文庫、[[1997年]])、101〜2頁)</ref>。また前述の『維新元勲十傑論』は、「十傑」として三傑に続けて、[[江藤新平]]・[[横井小楠]]・大村益次郎・[[小松清廉|小松帯刀]]・[[前原一誠]]・[[広沢真臣]]・[[岩倉具視]]を挙げている。
 
この三傑の遺族のうち、木戸の養子・正二郎と大久保の長男・[[大久保利和|利和]]は、大名・公家以外の出身者(すなわち幕末まで無位無官であった家)としてはただ二家のみ、[[華族令]]発布当初より侯爵に列せられた。西郷の遺児・寅太郎は少し遅れて伯爵と扱いが低いが、これは隆盛が逆賊として最後を遂げた経緯を考えれば(死後名誉回復された際も他の二人の贈従一位より劣る贈正三位であった)むしろ破格であり、この三人が功臣としては死後も別格扱いであった証左となっている。ちなみに、発布当事(1884年)に残る功臣の筆頭格として政府の権勢を握っていた[[伊藤博文]]、[[山縣有朋]]、[[黒田清隆]]らはいずれも伯爵であり(伊藤と山縣は最終的には公爵)、まだ二十代前半で何の実績もない木戸正二郎と大久保利和に対し、あえて自分達より格上の侯爵で遇したことになる。
 
[[徳富蘇峰]]が生涯をかけた大著『[[近世日本国民史]]』最終巻に、三者を論じた『明治三傑』([[講談社学術文庫]]、[[1981年]]、元版は第100巻『近世日本国民史 明治時代』[[時事通信社]])がある。