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[[高台院]]に仕え始めた正確な時期は不詳であるが、豊臣秀吉が[[関白]]になった頃には奥を取り仕切る責任者となっていたと思われる。[[天正]]18年([[1590年]])には謀反の疑いをもたれた[[伊達政宗]]に対し秀吉の代理として詰問の書状を送り、[[慶長]]2年([[1597年]])、[[蔚山城の戦い]]における失態で[[小早川秀秋]]の[[筑前国]]から[[越前国]]への懲罰的移封が決定した際にも実務を取り仕切っている。秀吉より謀反の疑いをかけられた[[豊臣秀次]]を[[聚楽第]]から[[大阪城]]へ出頭するように説得する使者の役割を命じられたこともある。また、内裏への進上物を持参していることから高台院付きの女房の上位にいたことがわかる<ref>[[田端泰子]]『北政所おね―大坂の事は、ことの葉もなし―』(ミネルヴァ書房、2007年8月)119頁</ref>。そのため、「表のことは[[浅野長政]]が、奥のことは孝蔵主が」と言われるほどの権威を持っていた。
 
慶長3年([[1598年]])に秀吉が死去すると、慶長4年([[1599年]])に高台院と共に大坂城を退去し、[[京都|京]]の三本木(現在の[[祇園]]付近)に移る。その後は高台院執事として[[大津城の戦い]]の講和交渉役<ref>[[跡部信]]「高台院と豊臣家」(『大阪城天守閣紀要』第34号、2006年)</ref>や[[徳川家康]]との折衝役などを務める。しかし慶長19年([[1614年]])、大坂の陣の直前に駿府に赴き、その後は[[徳川秀忠]]から[[江戸城]]下に屋敷を与えられ、[[寛永]]2年([[1625年]])10月23日には[[河内国]]深井村に200石の領地を与えられる<ref>桑田忠親『桃山時代の女性』(吉川弘文館、1972年)144頁</ref>。
 
寛永3年(1626年)に死去。生涯未婚であったため子はいなかったが、特別に甥・川副重次が養子となり200石を嗣いだ。墓所は[[東京都]][[荒川区]][[西日暮里]]の南泉寺。